太閤検地
太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が全国的に行った検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。
概要
豊臣秀吉は、各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。彼は1582年から検地を行っており、1591年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤ではなかったが、学術上では1591年以前の検地も含めて「太閤検地」と呼ばれている。1591年に秀吉は全国の大名に対し、国郡を基準とした石高帳(一国御前帳)の作成を命じた。
なお、これ以前にも各地の大名によって検地は行われている。特に織田信長によって大規模な検地が行われており、太閤検地の原型になったといわれている(これを「信長検地(しんちょうけんち)」と呼ぶことがある)。
特徴
土地の権利関係
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった(地下請)。この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。
太閤検地ではこういった権利関係が整理され、ひとつの土地に複数の耕作者=納税者が存在することはなくなったのだが、これは帳簿の上でのことで、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた[1]。
単位の統一
太閤検地は以下のような基準で行われた。
これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位が統一された。
ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する[2]。
数字の正確さ
戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地が多かったが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測された。ただし、越後の上杉氏の領地など、実際に計測していない例も多く存在する[2]。
なお「それまでの石高が年貢を表していたのに対し、太閤検地の石高は生産高を表している」と説明されることがあるが、これは誤りである[3]。なお、ほとんどの場合、この石高から「免(=年貢の一定額免除)」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。
検地国数の推移
年 | 1582年 | 1583年 | 1584年 | 1585年 | 1586年 | 1587年 | 1588年 | 1589年 | 1590年 | 1591年 | 1592年 | 1593年 | 1594年 | 1595年 | 1596年 | 1597年 | 1598年 |
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国数 | 3 | 4 | 7 | 5 | 2 | 6 | 8 | 16 | 19 | 20 | 10 | 9 | 14 | 20 | 8 | 5 | 10 |