武蔵国
テンプレート:Pathnav テンプレート:基礎情報 令制国
武蔵国(むさしのくに、テンプレート:旧字体)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。
目次
国名
「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(ムサ)国があり、のち身狭上(ムサガミ)・身狭下(ムサシモ)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)・総下(フサシモ)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もあるが、これらの説は、武蔵国はかつて毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体でありその後7世紀にヤマト王権が総国からこの地域に進出して勢力下においた、とする考古学的成果と相容れない。
表記については、飛鳥京・藤原宮木簡に「无耶志国」と見え、7世紀頃までの武蔵は「无射志」(ムザシ)や「牟射志」(ムンザシ)と表記されていた記録も見つかっている[1]。他にも「牟佐志[2]」、「無邪志[3]」といったの表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。
沿革
古代
6世紀の武蔵国造の乱の後、无邪志国造(胸刺、牟邪志、无謝志とも)の領域と知々夫国造の領域を合し7世紀に成立したとされる。大化元年(645年)に大化の改新が行われて穂積昨などが東国国司に任じられ、また持統天皇4年(690年)、朝廷は新羅からの亡命者で帰化した韓奈末許満ら12名を武蔵国に移した。大宝3年(703年)には、引田祖父が武蔵国守に任じられた。慶雲5年(708年)には、秩父郡で和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見されたため、朝廷は慶事としてこの年を「和銅」と改元した。和銅3年(710年)頃武蔵国造の乱で献上された南部(多氷)(現在の東京都府中市)に国府が置かれた。当初は水上交通が中心で、陸路が整備されていなかったため、比較的交通が発達し大国であった毛野国を経由する東山道に属し、東山道武蔵路が設けられた。宝亀2年(771年)10月27日に「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が宣下し東海道に移され、陸路が整備された。
平安時代の延長5年(927年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。必ずしも平穏ではなく、天慶2年(939年)の源経基と武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となったともいわれる。
中世
その後、牧の管理者の中から秩父氏が起こり、小野姓横山党横山氏など武蔵七党と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた。武蔵国府(東京都府中市)は重要な拠点として存在し、鎌倉街道が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、神奈川側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東(現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。周辺の国々では上総氏や三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。武蔵国でも比企氏、畠山氏が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。
この情況は、室町、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれた。河越氏は武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。武蔵国の中小武士団は武州南一揆や北一揆を結成した。
その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家と山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌や長尾景春)の対立が続いた。上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。府中市の分倍河原の合戦等多くの祈念碑が残っている。武蔵国は六浦や品川湊などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」での交易を活発に行っていた。
戦国時代後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。1546年(天文15年)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、江戸城や河越城、岩付城、鉢形城、滝山城(後の八王子城)、小机城などに軍事拠点が置かれた。1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。以後徳川家康が関東に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。
近世
江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩、忍藩、岩槻藩が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち隅田川から利根川(現在の江戸川下流)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。東京低地の開発が始まった。1653年(承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。
1853年(嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで農兵隊を編成した。八王子千人同心が動員され、近藤勇などが新撰組の中核を担った。1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約が締結された。
明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能が山城国の平安京(京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。
徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の東京都府中市は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。
近代以降の沿革
細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。他に吉井藩領が存在したが、記載が岩鼻県への統合後の状況となっているため詳細は不明。
- 新座郡 - 幕府領、旗本領、上野高崎藩、出羽長瀞藩
- 入間郡 - 幕府領、旗本領、川越藩、上野前橋藩、下総古河藩、下総佐倉藩、上総久留里藩
- 高麗郡 - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、岩槻藩、上野前橋藩、下総古河藩、下総佐倉藩、上総久留里藩
- 比企郡 - 幕府領、旗本領、川越藩、上野前橋藩、上総久留里藩
- 男衾郡 - 幕府領、旗本領、忍藩
- 幡羅郡 - 幕府領、旗本領、忍藩、岩槻藩、上総久留里藩
- 榛沢郡 - 幕府領、旗本領、岡部藩、忍藩、川越藩、上野前橋藩、上総久留里藩
- 那珂郡 - 幕府領、旗本領、上野前橋藩
- 久良岐郡 - 幕府領、旗本領、金沢藩
- 都筑郡 - 幕府領、旗本領、
- 多摩郡 - 幕府領、旗本領、鉄砲玉薬組同心給知、伊賀者給知、岩槻藩、出羽長瀞藩、上野前橋藩、三河西端藩、近江彦根藩
- 橘樹郡 - 幕府領、旗本領、
- 足立郡 - 幕府領、旗本領、忍藩、岩槻藩
- 児玉郡 - 幕府領、旗本領、上野前橋藩、上総久留里藩
- 賀美郡 - 幕府領、旗本領、上総久留里藩
- 秩父郡 - 幕府領、旗本領、忍藩、川越藩、上野前橋藩、因幡鳥取藩
- 横見郡 - 幕府領、旗本領、下総古河藩、下総佐倉藩
- 埼玉郡 - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、忍藩、岩槻藩、金沢藩、陸奥泉藩、出羽長瀞藩、上野前橋藩、下野足利藩、常陸下妻藩、下総古河藩、下総佐倉藩、上総久留里藩
- 大里郡 - 幕府領、旗本領、忍藩、上野前橋藩、常陸下妻藩、下総古河藩
- 荏原郡 - 幕府領、旗本領、近江彦根藩
- 豊島郡 - 幕府領、旗本領、伊賀者給知、明屋敷番伊賀者給知、鉄砲玉薬組同心給知、鉄砲玉薬組恩給知
- 葛飾郡 - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、岩槻藩
- 慶応4年
- 3月19日(1868年4月11日) - 神奈川奉行が新政府軍に接収されて横浜裁判所となり、金沢藩領を除く久良岐郡・都筑郡・橘樹郡全域を管轄。ただし、旧韮山代官所、松村支配所管轄地域の一部事務は引き続き両支配所が扱った。
- 4月3日(1868年4月25日) – 岡部藩が藩庁を移転して三河半原藩となる。
- 4月20日(1868年5月12日) - 横浜裁判所が神奈川裁判所に改称。内務は管下の戸部裁判所が担当した。
- 5月12日(1868年7月1日) - 江戸府を設置。朱引内を管轄。
- 6月17日(1868年8月5日)
- 6月19日(1868年8月7日) - 旧幕府代官の山田政則が武蔵知県事に就任。大里郡および足立郡、横見郡、豊島郡の各一部の幕府領・旗本領を管轄(後の大宮県)。
- 6月29日(1868年8月17日) - 韮山代官所に韮山県を設置。比企郡および入間郡、高麗郡、久良岐郡、多摩郡の各一部の幕府領・旗本領を管轄。久良岐郡では一部事務のみ引き継ぐ。
- 7月10日(1868年8月27日) - 旧幕府代官の松村長為、桑山効がそれぞれ武蔵知県事に就任。松村が新座郡および入間郡、高麗郡、久良岐郡、都筑郡、多摩郡、橘樹郡、荏原郡、豊島郡の各一部(後の品川県)、桑山が足立郡、豊島郡、葛飾郡の各一部(後の小菅県)の幕府領・旗本領を管轄。久良岐郡・都筑郡・橘樹郡では一部事務のみ引き継ぐ。
- 7月17日(1868年9月3日) - 「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」により、江戸府が東京府(第1次)に改称。
- 8月8日(1868年9月23日) - 武蔵知県事・松村長為が古賀定雄(一平)に交代。
- 明治元年
- 明治2年
- 1月10日(1869年2月20日) - 武蔵知県事・山田政則が宮原忠英に交代。
- 1月13日(1869年2月23日) - 宮原、古賀、河瀬各知県事の管轄区域にそれぞれ大宮県、品川県、小菅県を設置。
- 2月9日(1869年3月21日) - 久良岐郡・都筑郡・橘樹郡での武蔵知県事の一部事務を品川県が引き継ぐ。
- 4月 - 品川県のうち入間郡・高麗郡および比企郡の一部、大宮県のうち比企郡を韮山県に移管。
- 6月23日(1869年7月31日) - 金沢藩が任知藩事にともない六浦藩に改称。
- 9月29日(1869年11月2日) - 大宮県が県庁の移転により浦和県に改称。
- 11月1日(1869年12月3日) - 出羽長瀞藩が藩庁を移転して上総大網藩となる。
- 12月26日(1870年1月27日) - 廃藩となった吉井藩の領地(上総国の飛地を除く)を岩鼻県に編入。
- 明治4年
- 2月17日(1871年4月6日) - 上総大網藩が藩庁を移転して常陸龍崎藩となる。
- 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が川越県、岩槻県、忍県、六浦県および泉県、前橋県、高崎県、足利県、下妻県、龍崎県、久留里県、古河県、佐倉県、半原県、西端県、彦根県、鳥取県の飛地となる。
- 10月28日(1871年12月10日) - 第1次府県統合により、岩鼻県・前橋県・高崎県が群馬県(第1期)に統合。
- 11月14日(1871年12月25日)
- 第1次府県統合により、国内は以下の各県の管轄となる。また、彦根県の国内の管轄地域の東京府への移管が太政官布告で命じられる。
- 11月22日(1872年1月2日) - 彦根県が長浜県に統合。
- 明治5年1月24日(1872年3月3日) - 長浜県のうち荏原郡および多摩郡のうち現世田谷区域が東京府、多摩郡のうち現狛江市域が神奈川県に移管。当初は全域が東京府に移管予定であったが、急遽変更された。
- 明治6年(1873年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1期)と合併して熊谷県となる。
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2期)に改称。埼玉県が現在の区域となる。
- 明治26年(1893年)4月1日 - 神奈川県のうち旧多摩郡の一部(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)が東京府に移管。神奈川県が現在の区域に、東京府が現在の東京都の区域となる。
- 昭和18年(1943年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
国内の施設
国府
- 武蔵国府跡 (東京都府中市、[[[:テンプレート:座標URL]]35_40_8.31_N_139_28_47.68_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E8%B7%A1 位置])
- 国府津
国分寺・国分尼寺
- 武蔵国分寺跡 (東京都国分寺市西元町・東元町、[[[:テンプレート:座標URL]]35_41_32.74_N_139_28_18.52_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1 位置])
- 現在の国分寺市西元町1テンプレート:~4丁目に存在した。都と国府を繋ぐ古代官道「東山道武蔵路」東側の広大な土地に大規模な遺跡が確認され、国の史跡に指定されている。その法燈を継承する寺院として跡地北方に医王山最勝院国分寺(本尊:薬師如来、[[[:テンプレート:座標URL]]35_41_37.51_N_139_28_18.85_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%EF%BC%88%E5%BE%8C%E7%B6%99%E5%AF%BA%E9%99%A2%EF%BC%89 位置])がある。
- 武蔵国分尼寺 (東京都国分寺市西元町4丁目、[[[:テンプレート:座標URL]]35_41_23.41_N_139_28_4.09_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B0%BC%E5%AF%BA%E8%B7%A1 位置])
- 現在の国分寺市西元町4丁目の西院(尼寺)地区に存在した。古代官道「東山道武蔵路」の西側、国分寺の向かい側に位置する。国分尼寺跡は「武蔵国分寺跡」の一部として国の史跡に指定され、2003年に初の国分寺市立歴史公園として開園している。
神社
- 総社:大國魂神社 (東京都府中市宮町、[[[:テンプレート:座標URL]]35_40_02.87_N_139_28_44.19_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 別名「六所宮」と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神を「武州六社明神」として祀る。
- 一宮:次の2社の説がある。
- 小野神社 (東京都多摩市一ノ宮、[[[:テンプレート:座標URL]]35_39_10.81_N_139_26_32.18_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町、[[[:テンプレート:座標URL]]35_55_0.30_N_139_37_47.04_E_region:JP-11_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%81%AF%E4%B8%89%E5%AE%AE%E3%80%81%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 二宮:二宮神社 (東京都あきる野市二宮、[[[:テンプレート:座標URL]]35_43_36.79_N_139_18_48.86_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E4%BA%8C%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 武州六社のうち唯一、式内社ではない。
- 三宮:氷川神社
- 四宮:秩父神社 (埼玉県秩父市番場町、[[[:テンプレート:座標URL]]35_59_51.37_N_139_5_2.86_E_region:JP-11_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%9B%9B%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E7%A7%A9%E7%88%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 五宮:金鑚神社 (埼玉県児玉郡神川町二ノ宮、[[[:テンプレート:座標URL]]36_10_48.92_N_139_4_23.02_E_region:JP-11_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E4%BA%94%E5%AE%AE%E3%80%81%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E9%87%91%E9%91%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 二宮ともいうが中世史料はない[11]。
- 六宮:杉山神社 - 論社は多数。大國魂神社は神奈川県横浜市緑区西八朔町の杉山神社([[[:テンプレート:座標URL]]35_31_42.1_N_139_31_36.9_E_region:JP-14_type:landmark&title=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%85%AD%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E6%9D%89%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%AB%96%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])を指定。
一宮以下について
上記のように、一宮以下については諸説ある。
総社の大國魂神社(六所宮)では、『神道集』(南北朝時代)に記載される「武州六大明神」を基にして、
- 一宮:小野神社、二宮:二宮神社、三宮:氷川神社、四宮:秩父神社、五宮:金鑽神社、六宮:杉山神社
を公式としている。現在も大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷では氷川神社の神官が参じている。
『神道集』以外の文献は以下の通り。
これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説[13]、『延喜式神名帳』に「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説もある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする史料は中世までの間では見つかっていない。
安国寺利生塔
主要な港
牧
- 飛鳥時代
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- 平安時代
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地域
郡
武蔵国には21郡(後に22郡)が置かれた。陸奥国の40郡に次いで多い。
- 多摩郡(多麻郡や多磨郡とも。たまぐん)
- 荏原郡(えばらぐん)
- 豊嶋郡
- 足立郡
- 葛飾郡(葛西郡)-近世に下総国から編入
- 新羅郡(新座郡・新倉郡)
- 児玉郡
- 秩父郡
- 大里郡
- 入間郡
- 賀美郡(加美郡とも)
- 横見郡
- 埼玉郡
- 高麗郡
- 比企郡
- 男衾郡
- 幡羅郡
- 榛沢郡
- 那珂郡
- 久良岐郡(くらきぐん、または「久良郡」)
- 都筑郡(つづきぐん)
- 橘樹郡(たちばなぐん)
江戸時代の藩
- 深谷藩
- 岡部藩
- 本庄藩
- 八幡山藩
- 東方藩
- 忍藩
- 騎西藩(私市藩)
- 武蔵松山藩
- 野本藩
- 高坂藩
- 久喜藩
- 石戸藩
- 小室藩
- 原市藩
- 岩槻藩
- 一宮藩
- 川越藩
- 鳩ヶ谷藩
- 喜多見藩
- 六浦藩(武州金沢藩)
- 赤沼藩(赤松藩)
領
江戸時代後期の文化・文政期に幕府湯島聖堂地理局による事業として編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿』(1830年〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらに領という区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。
「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、川崎市の二ヶ領用水(稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、埼玉県の旧北足立郡域では、「指扇領辻」(さいたま市西区)・「南部領辻」(さいたま市緑区)、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、上尾市)、「安行領在家」(川口市)、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。
以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。
- 府中領 - 多磨郡 44
- 柚木領 - 多磨郡 24
- 日野領 - 多磨郡 20
- 由井領 - 多磨郡 56
- 小宮領 - 多磨郡 59
- 三田領 - 多磨郡 55
- 拝島領 - 多磨郡 16
- 山口領 - 多磨郡 23、入間郡 41
- 野方領 - 多磨郡 54、豊嶋郡 40、新座郡 34
- 麻布領 - 豊嶋郡 16、荏原郡 5
- 貝塚領 - 豊嶋郡 1
- 峽田領(はけた-) - 豊嶋郡 36
- 岩淵領 - 豊嶋郡 19
- 戸田領 - 豊嶋郡 4、足立郡 11
- 淵江領 - 豊嶋郡 2、足立郡 38
- 谷古田領 - 足立郡 31
- 赤山領 - 足立郡 24
- 舎人領 - 足立郡 10
- 平柳領 - 足立郡 15
- 浦和領 - 足立郡 13
- 木崎領 - 足立郡 17
- 安行領 - 足立郡 4
- 三沼領(見沼領) - 足立郡 16
- 南部領 - 足立郡 38
- 上尾領 - 足立郡 6
- 大谷領 - 足立郡 26
- 鴻巣領 - 足立郡 30
- 忍領 - 足立郡 19、埼玉郡 64、大里郡 13、男衾郡 1、幡羅郡 32、榛沢郡 2
- 石戸領 - 足立郡 21
- 平方領 - 足立郡 5
- 差扇領 - 足立郡 18
- 吉野領 - 足立郡 7
- 大宮領 - 足立郡 15
- 植田ヶ谷領 - 足立郡 25
- 与野領 - 足立郡 23
- 笹目領 - 足立郡 9
- 西葛西領 - 葛飾郡 69
- 北半の「本田筋」と南半の「新田筋」に分けられる。
- 東葛西領 - 葛飾郡 52
- 北半の「上の割」と南半の「下の割」に分けられる。
- 二郷半領 - 葛飾郡 81
- 西半の「本田方」と東半の「新田方」に分けられる。
- 松伏領 - 葛飾郡 18
- 幸手領 - 葛飾郡 54
- 島中河辺領(しまちゅうかわべ-) - 葛飾郡 18
- 六郷領 - 荏原郡 34
- 馬込領 - 荏原郡 13
- 世田ヶ谷領 - 荏原郡 30、多磨郡 29
- 品川領 - 荏原郡 13
- 稲毛領 - 橘樹郡 57
- 神奈川領 - 橘樹郡 40、都筑郡 35
- 小机領 - 橘樹郡 7、都筑郡 25
- 川崎領 - 橘樹郡 26
- 金沢領 - 久良岐郡 18
- 本牧領 - 久良岐郡 36
- 金子領 - 入間郡 12
- 河越領 - 入間郡 112、高麗郡 10
- 入西領(にっさい-) - 入間郡 18
- 高麗領 - 高麗郡 20
- 加治領 - 高麗郡 47、秩父郡 2
- 松山領 - 高麗郡 1、比企郡 50、男衾領 5
- 川島領 - 比企郡 54
- 多磨川領 - 比企郡 27、男衾郡 4、秩父郡 7
- 下吉見領 - 横見郡 46
- 岩槻領 - 埼玉郡 92
- 八条領 - 埼玉郡 35
- 新方領 - 埼玉郡 29
- 百間領(もんま-) - 埼玉郡26
- 菖蒲領 - 埼玉郡 15
- 騎西領 - 埼玉郡 56
- 向川辺領 - 埼玉郡 13
- 古河川辺領 - 埼玉郡 10
- 羽生領 - 埼玉郡 84
- 深谷領 - 大里郡 1、幡羅郡 13、榛沢郡 29
- 御正領 - 大里郡 7
- 上吉見領 - 大里郡 23
- 鉢形領 - 男衾郡 25、幡羅郡 20、那珂郡 6、児玉郡 24
- 岡部領 - 榛沢郡 10
- 本庄領 - 榛沢郡 3、児玉郡 21
- 藤岡領 - 榛沢郡 6
- 阿保領(安保領) - 榛沢郡 3、児玉郡 4、賀美郡 27
- 八幡山領 - 那珂郡 2、児玉郡 19
- 秩父領 - 児玉郡 1、秩父郡 1
- 上記のほか、足立郡の郡図総説(巻之百三十五)では「小室郷」としているが、巻之百四十六では足立郡内の9村を「小室領」として記載している。
新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「武蔵野新田」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。
現在の行政区分
人口
- 1721年(享保6年) - 190万3316人
- 1750年(寛延3年) - 177万1214人
- 1756年(宝暦6年) - 177万4064人
- 1786年(天明6年) - 162万6968人
- 1792年(寛政4年) - 163万4048人
- 1798年(寛政10年)- 166万6131人
- 1804年(文化元年)- 165万4368人
- 1822年(文政5年) - 169万4255人
- 1828年(文政11年)- 171万7455人
- 1834年(天保5年) - 171万4054人
- 1840年(天保11年)- 172万1359人
- 1846年(弘化3年) - 177万7371人
- 1872年(明治5年) - 194万3211人
人物
国司
守護
鎌倉幕府
- 1184年テンプレート:~1195年 - 平賀義信
- 1207年テンプレート:~1239年 - 北条時房
- 1240年テンプレート:~? - 北条泰時
- 1245年テンプレート:~? - 北条経時
- ?テンプレート:~1256年 - 北条時頼
- 1256年テンプレート:~? - 北条長時
- 1266年テンプレート:~1272年 - 北条時宗
- 1279年テンプレート:~? - 北条時守
- 1292年テンプレート:~1310年 - 北条貞時
- ?テンプレート:~1333年 - 北条高時
室町幕府
- 1337年テンプレート:~1338年 - 高重茂
- 1341年テンプレート:~1344年 - 高師冬
- 1346年テンプレート:~1351年 - 高師直
- 1351年 - 上杉憲将(又は上杉憲顕)
- 1351年テンプレート:~1352年 - 仁木義章
- 1357年テンプレート:~? - 畠山国清
- 1368年 - 上杉憲顕
- 1368年テンプレート:~1378年 - 上杉能憲
- 1378年テンプレート:~1379年 - 上杉憲春
- 1379年テンプレート:~1394年 - 上杉憲方
- 1397年テンプレート:~1409年 - 上杉朝宗
- 1419年テンプレート:~1439年 - 上杉憲実
- 1440年テンプレート:~1441年 - 上杉清方
- 1446年テンプレート:~1454年 - 上杉憲忠
- 1454年テンプレート:~1466年 - 上杉房顕
- 1466年テンプレート:~1481年 - 上杉顕定
脚注
注釈
- ↑ 元来は隅田川以東であり、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現江戸川)以東迄を武蔵国に編入した。
- ↑ 旧中葛飾郡を除く。元来は古利根川以東であり、江戸時代初期の1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川(現江戸川)以東までを武蔵国に編入した。
- ↑ 相模国鎌倉郡に属していた以下の地域は除く:戸塚区、瀬谷区(卸本町の一部を除く)、泉区、栄区の全域および南区六ツ川四丁目、港南区永野地区、金沢区朝比奈町全域と東朝比奈の一部
出典
関連項目
外部リンク
- 駅名に見る国名 其の四 武蔵国
- 武蔵国府(国府物語)
- 南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容
- 『武蔵名勝図会』 - 江戸時代に描かれた武蔵国
- ↑ 无射志国荏原評銘文字瓦(川崎市教育委員会文化財課)
- ↑ 御田八幡神社由緒。
- ↑ 高橋氏文にある「武蔵国造の意」の表記。
- ↑ 瓦谷戸窯跡群発掘調査報告書
- ↑ 平野卓治「律令国家と「坂東」」 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武次編『列島の古代史1 ひと・も・こと 古代史の舞台』岩波書店 2006年 140-141頁
- ↑ 府中市教育委員会・国分寺市教育委員会 編『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』学生社、2006年(平成18年)
- ↑ 府中観光協会 武蔵国衙跡
- ↑ 国史跡 武蔵国府跡
- ↑ 『品川区史』通史編、高島緑雄
- ↑ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 190-196。
- ↑ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 194。
- ↑ 『埼玉県の地名』(平凡社) 金鑚神社項。
- ↑ 『埼玉県の地名』(平凡社) 氷川神社項。