古事記伝
『古事記伝』(こじきでん、ふることふみのつたえ)は、江戸時代の国学者・本居宣長の『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書である。『記伝』と略される。
沿革
1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)にかけてである。
医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年(宝暦6年)、27歳の時に店頭で『先代旧事本紀』とともに『古事記』の巻を購入した。この頃、宣長は『日本書紀』を読んでおり、賀茂真淵の論考に出会って日本の古道を学び始める。宣長が本格的に『古事記』研究に進むことを決意したのは、1763年(宝暦13年)の、私淑する真淵と「松坂の一夜」ではじめて直接教えを受けた頃である。その翌年、1764年(宝暦14年)から『古事記伝』を起筆し、間に『玉勝間』や『うひ山ぶみ』などの執筆も挟んで1798年(寛政10年)まで35年かけて成立した。
内容
『古事記伝』は、『古事記』の当時の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する書誌学的手法により執筆されている。さらに古語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている(こうした書誌学的手法は宣長のみならず江戸期の学芸文化から現在の国文学・歴史学に到るまで行われており、『古事記』に関してはのちの倉野憲司『古事記全註釈』にも引き継がれている)。『記伝』全44巻のうち、巻一は「直毘霊」(ナホビノミタマ)を含む総論となっており、巻二では序文の注釈や神統譜、巻三から巻四十四までは本文の註釈に分かれている。
宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、近代的な意味での実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。国語学上の定説となっている上代特殊仮名遣も、宣長によって発見されたと評価されている。宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方や考え方の中に連綿と流れる一貫した精神性、即ち『道』(古道)の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。
宣長研究の第一人者村岡典嗣は1911年(明治44年)に上梓した『本居宣長』(東京警醒社)の中で次のように述べている。
古事記伝を離れて単独に古道を説いたものとしては、「直毘霊」・「葛花」・「玉くしげ」「秘本たまくしげ」 「伊勢ニ宮ささ竹の弁」等の著述がある。
彼が『古事記』を称揚した影響で、それまでは正史である『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』に対する評価は一変し、神典として祭り上げられるようになった。宣長は、『古事記』の註釈にあたって、本文に記述された伝承はすべて真実にあったことと信じ、「やまとごころ」を重視して儒教的な「からごころ」を退けるという態度を貫いた。
なお、『古事記』本文の定本の一つとして、現在でも参考に用いられている『訂正古訓古事記』は、宣長の死後、1803年(享和3年)に、弟子の長瀬真幸が『古事記伝』の本文と訓のみを一部訂正して出版したテキストである。
文学・歴史研究への影響
『古事記伝』は、単に『古事記』一作の註釈書としてのみならず、のちの古代文学研究、あるいは古代史研究にも極めて大きな影響を及ぼしており、21世紀にあっても、『古事記』および古代文化研究の基本書としての地位を保ち続けている。今日の『古事記』註釈書は、基本的には宣長の採用した読み・解釈にその後の研究による訂正を加えたものが主流となっている、と言っても過言ではない。一方で、そうした宣長流の註釈・解釈に異論を唱える立場からも様々な批判がなされている。
邪馬台国論争に関しては、宣長は尊王攘夷の立場に立っていた『三国志演義』に基づき『魏志倭人伝』を解釈して、卑弥呼女酋説・九州耶馬台国説を提唱したことから、新井白石とともにその後の耶馬台国論争の火種とされる。
その他
『古事記伝』の題字は宣長を召抱えた紀州藩10代藩主徳川治寶から下賜されたものである。