氷川神社

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テンプレート:神社 氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社式内社名神大社)、武蔵国一宮または三宮勅祭社旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。

東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。

概要

神社の境内は見沼江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。現在の神池は、見沼の名残である。埼玉県東京都荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布する。

富士山筑波山を結んだ線と、浅間山冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。なお、この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが別のものである。

さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年平成20年)以降は連年200万人以上が訪れている。

祭神

現在の主祭神は以下の3柱。

祭神の変遷

祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた[1]平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。

  • 日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)。
  • 須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)。
  • 男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉三穂津姫弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『風土記稿』)。
  • 男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。

近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、江戸時代元禄12年(1699年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。

現在の祭神は、天保4年(1833年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。

歴史

創建

社伝によれば、第5代孝昭天皇3年4月の創建されたという。

国造本紀』によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であ り、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。

概史

前史

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[2]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[3]、先住の神がアラハバキとみられる[2]

このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。

古代

日本三代実録』には神階授与の記載があり(後述)、古来から朝廷から崇敬された。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列している。また武蔵国の一宮または三宮とされ(後述)、国司からも崇敬を受けた。

中世

平安時代後期、平貞盛平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。治承4年(1180年)には源頼朝土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納している。

近世

徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。寛文7年(1667年)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。

近代以降

明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守勅祭の社と定めた[4]。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞奉納される。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度参拝され、昭和天皇も皇太子時代の1917年大正6年)11月12日、天皇に即位した1934年昭和9年)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝された。今上天皇も皇太子時代の1987年(昭和62年)7月に夫妻で参拝されている。

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(現・さいたま市北区日進町)へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。

1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉県護国神社となり、同4月には国指定護国神社となった。

1966年(昭和41年)7月22日明治神宮の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣功された。これが現在、さいたま市立大宮図書館前にある二の鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。

1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。

神階

文献にはいずれも「武蔵国氷川神」と記載。

  • 貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)
  • 貞観5年(863年)6月8日、正五位下 (『日本三代実録』)
  • 貞観7年(865年)12月21日、従四位下 (『日本三代実録』)
  • 貞観11年(869年)11月19日、正四位下 (『日本三代実録』)
  • 元慶2年(878年)12月2日、正四位上 (『日本三代実録』)

一宮・三宮に関する議論

武蔵国内における氷川神社の位置付けには、一宮と三宮の2説がある[1](「武蔵国#一宮以下について」も参照)。当社自体は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げている。

上記を基に、室町時代以降に当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説がある[1]。『延喜式神名帳』には「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」と記され、平安中期にはすでに社格の逆転があったと考えられる。しかし現在のところ、中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていない。

武蔵国総社大國魂神社(六所宮)では国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っているが、ここでは「一宮:小野神社、三宮:氷川神社」を公式としている。現在も大國魂神社の例大祭くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷に氷川神社の神官が参じている。

境内

摂末社

摂社

末社

参道

中山道大宮区吉敷町から神社まで、およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。参道には三つの大鳥居があり、中山道と分かれる位置に「一の鳥居」、前述の市立図書館近くに「二の鳥居」、境内入り口に「三の鳥居」がある。参道周辺には勅使斎館等の行事施設や市立図書館・博物館が並ぶほか、大型マンションが並ぶ地域もあるが、おおむね閑静な住宅街である。特に神社周辺の高鼻町は古くから高級住宅地となっており、建築制限が課せられている。

参道は古来が多かったが、明治以降はが主体となる樹木で覆われた。太平洋戦争中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになったが、ケヤキも歩行者により、根本が踏み固められたために弱っている。ケヤキを含め、参道には30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木25本を市の天然記念物に指定している。

2キロに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。

  1. 神社から埼玉県道2号さいたま春日部線(旧国道16号)までの約500mは往事の面影が残された広い参道が延びている。中央に歩行者用の広い参道があり、東側に対面通行の自動車道がある。
  2. 県道2号から大宮中央通り(大宮駅東口の駅前通り)までの約300mは「平成ひろば」と名づけられた公園になっている。中央が歩行者用の広い参道であり、その周囲が公園となっている。自動車は「平成ひろば」の両側を南北方向とも一方通行で走ることができる。
    「平成ひろば」は参道を利用していた住宅・店舗を移転させた跡地に造られた。この住宅や店舗はもともと、第二次世界大戦敗戦後に大宮駅東口に集まっていた闇市やバラック街であったが、1947年(昭和22年)に駐留軍が排除命令を出し、警察と大宮市、氷川神社の間で、参道の一部に移転することが決められた。その後40年にわたって参道の一部が生活の場となったが、そのために樹木は荒れ、往事の面影は失われた。昭和の終りに大宮市によって街道の再生が行われ、住宅や店舗は下町の市営住宅へ移転し、跡地は1989年(平成元年)に「平成ひろば」となった。
  3. 大宮中央通りの南の約1000mは狭くなっており、参道を車道として開放している。歩道と車道が分離されており、自動車は北向きの一方通行である。将来構想としては、自動車を完全に排除して、往事の参道に再生することが考えられている。
    この区間は住宅街を貫き、自動車の違法駐車が後を絶たなかった。また南大通りより南の部分(一の鳥居から南大通りまで380m)は狭いながら対面通行であり、歩行者、自転車、双方向の自動車、路上駐車で混乱していた。さいたま新都心が街開きしたことから、参道南部を歩く人が飛躍的に増え、違法駐車の排除が検討される。そこで、参道再生の一環として車道部分を通過できるだけの広さにし、残りを御影石風のブロックを敷き詰めた歩道にした。2002年(平成14年)に第一期が完成(南大通りより北の450m)、2006年(平成18年)に第二期(上記の380m)が完成した。特に第二期は自動車を一方通行に変更するため、数次に亘る社会実験を経て実現した。2009年(平成21年)に第三期(中央通りより南の約200m)が着手され、全区間の歩車分離が完成した。

参道では毎年12月10日に「十日市(とうかまち)」という祭が催され、さいたま市屈指の賑わいをみせる。このほか、中山道土手町から神社北側に至る「裏参道」がある。

主な祭事

文化財

埼玉県指定有形文化財

  • 氷川神社行幸絵巻 1巻(附 原本1巻、下絵1巻)(絵画) - 昭和39年11月17日指定。

さいたま市指定有形文化財

  • 氷川神社横山大観作「秋色武蔵国」1幅(絵画) - 昭和39年1月13日指定。
  • 氷川神社文書(古文書) - 昭和40年11月6日指定。

さいたま市指定天然記念物

  • 氷川参道の並木 - 昭和50年2月7日指定(昭和63年12月2日追加指定)。

現地情報

所在地
交通アクセス
参道の始まる一の鳥居へは、さいたま新都心駅が最寄駅。
周辺
明治期に神社の周辺の社有林を開いて設置された。現在でも境内と明確に分かれているわけではない。公園にはサッカー場、野球場、競輪場、小動物園、児童公園、水泳場、弓道場、県立博物館等が置かれている。

脚注

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参考文献

関連項目

当社に由来

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 『埼玉県の地名』(平凡社)氷川神社項。
  2. 2.0 2.1 大林太良『私の一宮巡詣記』(青土社、2001年)69頁。
  3. 松前健『日本神話の形成』(塙書房)186頁、菱沼勇「武蔵の古社」(有峰書店、1972年)71-75頁、原島礼二「氷川神社」、谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地 11関東』(白水社)。
  4. 氷川神社ヲ武蔵国ノ鎮守ト為スノ詔」、『​稿​本​詔​勅​録​』巻之一(内部上)22頁、閲覧画面で28頁。「武蔵国大宮駅氷川神社ヲ当国ノ鎮守トナシ勅祭ノ社ト定ム」、『太政類典』第1編(慶応3年~明治4年)第123巻36。