伊奈忠次
テンプレート:基礎情報 武士 伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。
生涯
三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主の伊奈忠家の嫡男(忠家の父忠基の末子との説もあり)に生まれる。永禄6年(1563年)に父忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の元を出奔。天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。家康の嫡男信康の家臣として父と共につけられたものの、信康が武田氏との内通の罪により自刃させられると再び出奔し、和泉国堺に在した。
天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父忠家の旧領小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。
家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。
功績
武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。嫡男の忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。
伊奈町音頭は「ハァ~伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
逸話
- 小田原征伐の後、家康は後北条氏の旧領を与えられて関東に入るが、このとき忠次は家康より小田原城内の米蔵の量の検査を命じられた。普通ならかなりの時間がかかるはずだが、忠次はわずか数日で検査結果を家康に報告した。家康が「なぜこんなに早くわかった?」と訊ねると「不正を防ぐために蔵は封印しました。そして村長に命じて北条家に納めた租税の量を詳しく書き記させました。これで蔵の米量は明らかになりました。蔵ごとに調査していたら、時もかかりますし間違いも多いですから」と述べた。家康は忠次の機転を誉めたという(本間清利『関東郡代』)。
- 甲斐国で家康が鷹狩りをしていたとき、付近の村で騒ぎが起きた。家康の命を受けた忠次が様子を見に行くと村は野盗に襲われて荒らされていた。忠次は野盗の住処を見つけ出し、大蔵左衛門という首領を自ら斬った。家康は忠次を血気の功としながらも賞賛し、斬った刀は「大蔵」と名づけて家宝とした(本間清利『関東郡代』)。
関連項目
参考文献
- 『世界人物逸話大事典』角川書店