日米和親条約
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも[1]呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。
条約名のうち「日米」とは、日は日本、米はメリケン(米利堅)で、当時の日本における正式名は日本國米利堅合衆國和親條約(にほんこくめりけんがっしゅうこくわしんじょうやく)である。幕末から明治にかけては、アメリカ合衆国は「メリケン」「米利堅」と呼ばれることが多かった。英文における正式名称はConvention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)であり、「Treaty of Kanagawa」と通称される。
経緯
テンプレート:Main アヘン戦争に於ける清国の敗北もあり、1842年(天保13年)に江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令に改めた。この変更も開国を意味せず、諸外国の船舶には穏便に帰国してもらうことが目的であった。
1853年(嘉永6年)、フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は艦隊(日本では黒船と呼ばれた)を率いて日本に来航、大統領の開国・通商を求める親書をもって幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が1年の猶予を求めたため一時退去した。
翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、再び来航して江戸湾(東京湾)へ入港した。同年3月4日(2月6日、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区の神奈川県庁付近、現横浜開港資料館所在地)に応接所を設置し、約1ヶ月にわたる協議の末、同年3月31日(3月3日)に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印した。日本側の実務担当者は、大学頭林復斎であった。
その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、同年6月17日(5月22日)に和親条約の細則を定めた下田条約(全13箇条)を締結した。なお、ペリー艦隊は同年6月25日(6月1日)に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結している(琉米修好条約)。
1857年6月17日(安政4年5月26日)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと下田奉行の井上信濃守清直、中村出羽守時万の間で日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(下田条約)が締結された。
内容
日米和親条約では次のような内容が定められた[2]。
第1条
- 日米両国・両国民の間には、人・場所の例外なく、今後永久に和親が結ばれる。
第2条
- 下田(即時)と箱館(1年後)を開港する(条約港の設定)。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。
- 物品の値段は日本役人がきめ、その支払いは金貨または銀貨で行う。
第3条
- 米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄の受け取りの米国人に引き渡される。
- 避難者の所有する物品はすべて返還され、救助と扶養の際に生じた出費の弁済の必要は無い(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。
第4条
- 米国人遭難者およびその他の市民は、他の国においてと同様に自由であり、日本においても監禁されることはないが、公正な法律には従う必要がある。
第5条
- 下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
- 行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。
第6条
- 他に必要な物品や取り決めに関しては、両当事国間で慎重に審議する。
第7条
- 両港において、金貨・銀貨での購買、および物品同士の交換を行うことができる。
- 交換できなかった物品はすべて持ち帰ることができる。
第8条
- 物品の調達は日本の役人が斡旋する。
第9条
- 米国に片務的最恵国待遇を与える。
第10条
- 遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。
第11条
- 両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。
第12条
- 両国はこの条約を遵守する義務がある。
- 両国は18ヶ月以内に条約を批准する。
また、下田条約では次のような細則が定められた。
- アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
- アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
- アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。
※全文についてはウィキソースを参照。
アメリカ側の目的
当時アメリカは、清をはじめとする東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていた。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことはできず、補給のための寄港地として日本の港が必要であった[3]。 水、食料についても補給が必要であり、特に、冷蔵庫もしっかりした保存食もない時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要であった。 また、北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国の捕鯨船員の引渡しもままならず、不便であった。このような背景から、ペリーの来航目的には通商交渉も含まれてはいたものの無理な交渉は行わず、人身保護と補給を主目的とした和親条約が締結されることとなった。下田・箱館が開港場に選ばれたのも、補給の利便性を重視したものであった。
その他
ペリーは日本との交渉のために、漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズおよびオランダ語通訳アントン・ポートマン(後に駐日米国代理公使)を乗艦させていた[4]。フィルモア大統領の親書は漢文およびオランダ語に翻訳され、日米和親条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われている。会話による交渉はオランダ語が中心となり、親書受け渡しの儀式にはポートマンのみが参列しているが、文書による交渉では漢文が併用された[5]。なお、ウィリアムズは漂流民から日本語を学んでおり、ペリーはウィリアムズに日本語での直接交渉も期待していたが、ウィリアムズは「自身の日本語はそのレベルには無い」とこれを辞退している。日本側でもオランダ語通詞の堀達之助は多少の英語ができ、来航した米国艦に対して「I can speak Dutch!」と叫んだとされている。2回目の来航時には長崎でラナルド・マクドナルドから英語を学んだ森山栄之助が第1通訳となっている[6]。また、米国から帰国していたジョン万次郎も幕府に雇用されたが、実際の交渉には参加していない。
条約の日本語批准書原本は、幕末の江戸城火災により焼失した。オランダ語によって書かれた批准書原本のうちアメリカ合衆国が持ち帰ったものについては、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており、現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。
取り上げた作品
- 映画
- 武士道ブレード (1981年)