江戸城
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里[出典 1]と、日本最大の面積の城郭になった[出典 2]。
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
国の特別史跡に指定されている。
目次
歴史・沿革
築城まで
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。
築城
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[1]。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで1524年(大永4年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川・荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。
江戸時代
- 天下普請前
家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であったため、徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築。また道三堀や平川の江戸前島中央部(外濠川)への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
- 慶長期天下普請
- 1603年(慶長8年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。
- 1606年(慶長11年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
- などであった。
- 翌1607年(慶長12年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
- 1611年(慶長16年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
- 1614年(慶長19年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。これらによって諸大名は著しく疲弊した。
- 元和期天下普請
- 1618年(元和4年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
- 1620年(元和6年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
- 1622年(元和8年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また1624年(寛永元年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
- 寛永期天下普請
- 1628年(寛永5年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
- 1635年(寛永12年)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。
- 1636年(寛永13年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。1637年(寛永14年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。
最後に1660年(万治3年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
近現代
- 1868年(慶応4年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。
- 1869年(明治2年) 東京奠都。皇城と称される。
- 1873年(明治6年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。
- 1888年(明治21年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
- 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
- 1945年(昭和20年) 空襲で大手門が焼失。
- 1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
- 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。
縄張
本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしている。逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができる。
石垣を多く見ることができるが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたものである[2]。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城であった。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかない。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。
内郭
- 本丸
本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の中心。関東入国時に本丸と二ノ丸の間にあった空堀を埋めている。その後、本丸御殿の拡張の為に、元和の改修時に北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった東照宮を廃して規模を拡張している。寛永期に残存していた出丸は的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては両者を大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積を大きく縮小させている。
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本丸南東より天守台方向
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白鳥濠と本丸東側の石垣
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蓮池濠と本丸西側の石垣
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平川濠と本丸北側の石垣
- 二ノ丸
本丸と同じく入国時に三ノ丸の間にあった空堀を埋めている。元は本丸の帯曲輪の様な存在であったが寛永期に拡張されて二ノ丸御殿が造られる。内部は石垣で複数に区画がなされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。
- 三ノ丸
入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。
以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。
- 西ノ丸
『聞書集』、『霊岩夜話』、『参考落穂集』などによれば、天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。
1592年(文禄元年)から翌年にかけて、西ノ丸は創建された。創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門の内側は西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至った。
- 紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。かつては日枝神社が祭られており、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵・書物蔵があった。
紅葉山も参照
- 北ノ丸
北の丸公園を参照
- 吹上
吹上御苑を参照
- 西ノ丸下
入国時はほぼ日比谷入江だった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、天海の屋敷の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる[3]。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は1668年(寛文8年)まで不明門であった。
皇居外苑も参照
外郭
- 大手前・大名小路
開幕前は侍衆・町人が混在している居住地であったが、開幕後は大名屋敷地となる。大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や春屋・小普請屋敷・北町奉行所が、大名小路には評定所や南町奉行所があった。
- 総構
外濠 (東京都)を参照
建築物
天守
太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で2重目屋根が方形造で錣屋根のようになっていた。
徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた[4]。
1657年に寛永度天守が焼失した後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。
また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。
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現・本丸天守台
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再建天守計画図(南面図)
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再建天守計画図(東・西面図)
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天守の代用とされていた富士見櫓
- 慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に、自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓をつなぐようにして天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)[5]。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であったため、当時の地勢では北西にあることになる。
天守は同年中に竣工し、1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、9重(『日本西教史』)ともある[6]。
慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、天守台は駿府城や淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型としている。駿府城などとは異なり、自然石と切石の間が狭いので多聞櫓などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。廻縁・高欄はなく、また最上階入側縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。作事大工は中井正清としている。
一方、内藤昌は『中井家指図』は元和度天守のものとしており、慶長度天守は5重7階、腰羽目黒漆、廻縁・高欄の後期望楼型であったとしている。作事大工は三河譜代の大工木原吉次、中井正清も協力したとする。
西ヶ谷恭弘は天守台の構造は宮上説と同じだが、天守は後期望楼型とする大竹正芳の図を宮上説とは別に紹介している。また三浦正幸門下の金澤雄記は20間四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした後期望楼型の天守を考証している。その後、三浦正幸は『津軽家古図』を慶長度としている[7]。
内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、『慶長見聞集』『岩渕夜話別集』でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。
- 元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普請とその上屋(天守)の作事が行われた。位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、その跡地に建てた(『御当家紀年録』)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広・浅野長晟の手による天守台の規模は慶長度の3分の1、寛永度天守と同様に南側に小天守台があり(『自得公済美録』)、高さも7間に縮小されている。天守内部には東照宮があったとされている[8]。
天守の構造は、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、天守台を含めた高さは約30間とされる。外観や諸構造については、諸説ある。
- 宮上茂隆案
- 宮上案では、旧津軽家の『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』を比定し、屋根は銅瓦葺、壁は白漆喰としている。寛永度天守との違いは各破風の下に張り出しが設けられているのが特徴で、これは作事に当たった譜代の鈴木長次、木原家の下にいる三河大工に見られる意匠としている。
- 内藤昌案
- 内藤案は、前述の通り『中井家指図』を比定し、一部の破風が異なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で銅瓦葺でない以外は内藤案と同様の見解を採っている。
- 西ヶ谷恭弘案
- 西ヶ谷案は『武州豊島郡江戸庄図』より初重を2階建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。
元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因するともいわれるが詳らかではなく、ほかに仙台城への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説がある。
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『中井家指図』(慶長度または元和度天守とされる図面)
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『江戸御殿守絵図』(元和度天守とされる図面)
- 寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之・浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは階段の踊り場のような意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じだが、大坂城と同じように東側の登り口以外に西側にも橋台と接続するかたちで出入口が設けられていた。
構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広。
1657年(明暦3年)の明暦の大火で、過失により開いていた二重目の銅窓から火が入り焼失している。再建計画時に寛永度と同様の天守を建築する予定だったので多くの資料が提出されており、確定的な図面が残されているので正確な姿が判明している。
- 規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間
- 地階…「12間×10間」
- 一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本
- 二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
- 三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
- 四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
- 五重目…「8間×6間」 桁行8間4尺×梁間6間3尺、柱数55本
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江府御天守図(寛永度天守図面)
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『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守
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寛永度天守の復元図
御殿
御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿がある。この内、三ノ丸御殿は元文年間に廃絶されている。本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として江戸城の中心的な役割を持ち、二ノ丸御殿は将軍別邸、西ノ丸御殿は隠居した将軍や世継の御殿として用いられた。
本丸御殿
本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在している。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行っていた。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られており、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。
将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(弘化元年)焼失)、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返している。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移している。
- 表・中奥
主要な御殿として西側に大広間・白書院・黒書院・御座之間・御休息が雁行しながら南から北に配置されている。表東側には表向の諸職の詰所や控室、中奥東側には側衆配下の詰所・控室や台所などがある。大老・老中・若年寄の執務・議事場は当初は御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋が設けられた。彼らと将軍の仲介者である側用人又は御側御用取次は中奥の中央に詰所があった。
表は儀礼空間であったので御殿の改変は少ないが、中奥は各将軍の好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥は大奥と異なり構造的には断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口のみ出入ができた。しかし表の役人は中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず、奥向の役人とは時計之間で会話を交わしていた。
- 大広間
本丸御殿中で最高の格式と最大の規模を有する御殿。東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物である。寛永17年の大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央に中庭が設け、屋根を低くするようになった。
大広間は将軍宣下、武家諸法度発布、年始等の最も重要な公式行事に用いられ、主な部屋は上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回りで配置される。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間の権威を象徴している。また南面の向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事があるときの能の催しではその内の一日を町入能として、町人が南庭で能を見ることを許した。
- 白書院
大広間に次ぐ格式を有する御殿。大広間と松之廊下で繋がっており、上段・下段・帝鑑之間・連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍の応接所として公式行事に用いられ、御暇・家督・隠居・婚姻の許可への御礼時に諸大名はここで将軍と面会していた。他に年始の内、越前松平家・加賀前田家とはここで対面をし、また勅使・院使を迎える際には下段を宴席の間としていた。
- 黒書院
白書院と竹之廊下で繋がっており、主な部屋として上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿が檜造に対し、総赤松造となっている。将軍の日常生活における応接所として用いられた。
- 御座之間・御休息
これらは将軍の居住空間として前者は上段・下段・二之間・三之間・大溜で構成される中奥の応接所で政務を執る場、後者は上段・下段のみで寝室や居間として用いられた。中奥は表向の役人は原則として出入りを禁じられていたが、将軍とお目見えする時のみは御座之間に入ることができた。当初、将軍は御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られている。
御休息は将軍の代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷の周辺も改造が多い。例えば能を好んだ徳川綱吉の時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所が中庭の二ヶ所に設置されている。逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、一時期は廊下の一部を区画してそこで寝起きをしていた。
- 大奥
大奥を参照
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本丸御殿表向模型、右から白書院、松の廊下、大広間
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白書院模型
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松の廊下から白書院
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本丸御殿表能舞台
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大広間上段西面
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大広間下段西面
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白書院上段下段
二ノ丸御殿
1636年(寛永13年)に最初に建てられた御殿は小堀遠州の手によるもので、表向の機能が省略された極めて遊興性の高いものであった。南西にある築山を背後に有し白鳥濠と繋がる池の中には能舞台(水舞台)があり、対岸の畔にある御座や濠に突き出た釣殿から観覧することができた。中央は御殿群があり、東側にも池や築山、池の中島にある御亭や御茶屋・御囲・学問所や御文庫があった。
しかしこの御殿は5年後には早くも取り壊され、1643年(寛永20年)には本丸御殿を簡略化した御殿が完成する。この御殿も明暦の大火で焼失し、越谷別殿を移築している。この後も1704年(宝永元年)、1760年(宝暦10年)に工事や再建が行なわれたが、1867年(慶応3年)に焼失してその歴史を終えることになる。
西ノ丸御殿
本丸御殿と同じく、表・中奥・大奥としきられ、おもな部屋をあげれば、遠待・殿上間・虎間・大広間・大廊下・溜間・白木書院・帝鑑の間・連歌歌間・山吹間・菊間・雁間・竹間・芙蓉間・中間・桔梗間・焼火間・躑躅間・柳間・梅竹間・檜間・蘇鉄間などがある。
御殿や櫓などは1634年(寛永11年)、1852年(嘉永5年)、1863年(文久3年)の三度にわたって焼失した。1868年(明治元年)4月、朝廷に明け渡された当時の殿舎は4度目の建築であったが、1873年(明治6年)5月5日に焼失した。守備は西丸小姓組が行った。
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『江戸図屏風』に描かれている西ノ丸御殿
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元治度西ノ丸仮御殿
櫓
- 三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟[9]
江戸城は幾度の火災によって焼失し、現存する伏見櫓・富士見櫓・巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。
江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、幕紋の足利二つ引を現す2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板を青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城や小田原城などの城郭にも施された。
初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城や名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のもが記されている[出典 3]。
多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。
- 隅櫓の一覧
- 本丸(南端より反時計回り、以下同じ)
- 富士見三重櫓、 御書院二重櫓、 書院出二重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、汐見二重櫓、不明櫓(元和度工事前)、汐見太鼓櫓(二重櫓)、梅林櫓(二重櫓)、五十三間櫓(二重櫓)、乾二重櫓、菱櫓(三重櫓)、西側二重櫓、数寄屋二重櫓(嘗ては三重櫓)
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富士見三重櫓
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右は御書院二重櫓、左は書院出二重櫓(間は中雀門跡)
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乾二重櫓(左は北桔橋門)
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数寄屋二重櫓(本丸から裏側)
- 二ノ丸
- 蓮池二重櫓、蓮池巽三重櫓、寺沢二重櫓(嘗ては三重櫓)、百人組二重櫓、巽奥三重櫓(松倉櫓)、東三重櫓(嘗ては二重櫓)、北櫓(二重櫓)、不明櫓二棟(二ノ丸拡張前)
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手前右が蓮池巽三重櫓、左が蓮池二重櫓(奥にあるのは富士見三重櫓)
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右から百人組二重櫓、寺沢二重櫓、蓮池巽三重櫓
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蓮池巽三重櫓、奥に見えるのは巽奥三重櫓(松倉櫓)
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左より巽奥三重櫓、東三重櫓
- 三ノ丸
- 桜田巽二重櫓、不明櫓四棟
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桜田巽二重櫓
- 西ノ丸
- 伏見二重櫓、御太鼓櫓
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伏見櫓二重櫓
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御太鼓櫓(右上の茅葺き屋根の櫓、『江戸図屏風』)
- 西ノ丸下
- 日比谷櫓、和田倉櫓
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日比谷櫓(『江戸図屏風』)
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和田倉櫓(『江戸図屏風』)
太線は幕末まで現存した櫓(内、現存するのは富士見三重櫓、桜田巽二重櫓、伏見二重櫓)、斜線は1863年(文久3年)に焼失した櫓、またここに記載されている櫓が一時期に全て存在した事はない。
門
- 外郭25棟、内郭11棟、城内87棟[10]
虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門とを構成して建てられた。大坂城や名古屋城の様な枡形の三方を櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乗門、不完全なものが北桔橋門にあるだけである。
櫓門は桁行は15間から20間、梁間が4間から5間ほどのものが建てられ、最大では、桁行25間(赤坂門・芝口見附新橋門)のものもあったが、享保9年(1724年)以降は24間×5間(下乗門)のものが最大となった。ちなみに、最小規模は4間×2間(山下門)である[出典 3]。
- 大手門
- 三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であり、現在の大手橋は大橋と呼ばれていた。江戸時代、勅使の参向、将軍の出入り、諸侯の登城など、この門から行うのが正式であった。また、ここの警備は厳重をきわめ、10万石以上の譜代諸侯がその守衛に勤仕し、番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたった。
- 西ノ丸大手門は、手前の橋場に建てられた高麗門とその後方の桁行18間×梁間4間の櫓門で構成されていた。現在の皇居正門で、高麗門は現存しない。
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三ノ丸大手門
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西ノ丸大手門(手前)
- 門の一覧
- 本丸
中雀門(書院門、玄関前門)、上埋門、下埋門、中之門、新門、汐見坂門、上梅林門、北桔橋門、西桔橋門、柚木門
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中雀門跡
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中之門
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上梅林門(奥の櫓門)
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北桔橋門
- 二ノ丸
下乗門、銅門、下梅林門、二ノ丸喰違門、蓮池門、寺沢門
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下乗門
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二ノ丸喰違門(手前の薬医門)
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蓮池門
- 三ノ丸
大手門、内桜田門(桔梗門)、平河門、不浄門(帯郭門)、三ノ丸喰違門
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大手門
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内桜田門
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平河門
- 西ノ丸
坂下門、西丸大手門、西丸中仕切門、西丸書院前門(西丸玄関前門、二重橋)、西丸裏門、大田門、山里門、吹上門、紅葉山下門
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坂下門(現在の門は90度位置が変わっている)
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西丸大手門(手前)、西丸書院前門(奥)
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西丸裏門(現在は移転して乾門)
- 内曲輪
竹橋門、和田倉門、馬場先門、日比谷門、外桜田門、半蔵門、田安門、清水門、雉子橋門、一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門、呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門
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竹橋門
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和田倉門
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馬場先門
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日比谷門
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外桜田門
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半蔵門
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田安門
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清水門
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一ツ橋門
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常盤橋門
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呉服橋門
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鍛冶橋門
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数寄屋橋門
- 外曲輪
山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違見附、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜大手門
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山下門
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幸橋門
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虎ノ門
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四谷門
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市ヶ谷門
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牛込門
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小石川門
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筋違橋門
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浅草橋門
番所
江戸城には警備要員の詰所として多くの番所があったが、現在残るのは下の三棟のみである。大番所は中之門の奥に、百人番所と同心番所は下乗門の奥と外にあり、それぞれの門を守っていた[11]。
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大番所
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百人番所
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同心番所
遺構
現存遺構
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。
- また、関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども、宮内庁管理のため重要文化財などには指定されていないが現存する。
他の遺構
- 川越の喜多院と氷川神社には、3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。
- 近年、都市再開発の動きに伴い、丸の内や霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
- 明治初年に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、戦災で焼失し、後に復元された。
復元
- 1964年(昭和39年) 北ノ丸の清水門・田安門の上部が復元された。
- 空襲により焼失した大手門が1967年(昭和42年)に復元された。
- 1968年(昭和43年) 二ノ丸跡を小堀遠州の回遊式庭園に復元し、諏訪の茶屋を吹上御苑より移築した。
- 江戸城障壁画下絵(狩野晴川院筆、東京国立博物館蔵)は、弘化度本丸御殿再建の際に描かれた障壁画の下絵集であり、御殿平面図と併せることで幕末期の御殿の内装を知ることを可能にした。これにより松の廊下の再現も可能となった。
- 現在、NPO法人「江戸城再建を目指す会」が、観光庁が推進する「観光立国」のシンボルとすべく、1657年(明暦3年)に焼失した天守の再建を目指して活動し会員を募っている。2010年(平成22年)には、当時の資料を基にした寛永度天守の詳細なCG復元図を作成した[12]。
現地情報
- 所在地
- 東京都千代田区千代田
- 交通アクセス (皇居東御苑)
その他
- 静岡県東伊豆町では、江戸城に使う石を切り出し港まで運ぶ様子を再現した「御石曳き」が行われている。
脚注
- ↑ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。
- ↑ この石船を運ぶ際、暴風雨によって数百隻の船が沈んだとされる。
- ↑ 改易されるまでは里見氏の屋敷も残っていた。
- ↑ なお宮上案に従えば、三代の天守は壁面・瓦の材質・破風の配置などを除けば、基本的に同じ規模・構造をしていた。
- ↑ その名残として、天守曲輪に当たる御休息(数寄屋、富士見)多聞櫓の北側から石室(西側二重櫓跡)までの本丸の石垣は現在も他より一段高くなっている。
- ↑ 7重・9重には「何段にも重なる」という意味もあるので、5重の可能性が高い。
- ↑ ただし金澤案は『愚子見記』の、三浦案は『愚子見記』『当代記』双方の記述内容に矛盾する。
- ↑ 後に二ノ丸東照宮として移転。また、『津軽家古図』には最上階上々段に東照宮があったと記載されている。
- ↑ 櫓の数や規模は時期により異なるので、これは一例である。
- ↑ 御殿の門なども含んだ数。主要な門57棟の内、櫓門は45棟。更に枡形を構成しているのはおよそ39棟。
- ↑ 現在の同心番所は門の中に移転している。
- ↑ 盛況・好評裡に終了!「江戸城寛永度天守『復元図』完成報告会」 江戸城再建を目指す会 2010年6月17日
参考文献
- ※以下は近年刊行。
- 村井益男 『江戸城 将軍家の生活』 講談社学術文庫 2008年
- 深井雅海 『江戸城-本丸御殿と幕府政治』 中公新書 2008年
- 深井雅海 『図解・江戸城をよむ 大奥 中奥 表向』 原書房 1997年
- 宮上茂隆 「徳川家康創建江戸城天守の復元」 日本建築学会 1990年
関連項目
外部リンク
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