木下延俊

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テンプレート:基礎情報 武士 木下 延俊(きのした のぶとし、1577年天正5年)- 1642年2月6日寛永19年1月7日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊後日出藩初代藩主。官位は従五位下、右衛門大夫。

一族

若狭国小浜領主で後に備中足守藩の領主となった木下家定の三男。母は杉原家次の娘、雲照院(おあこ)。兄弟には、木下勝俊(歌人・木下長嘯子としても知られている)、木下利房小早川秀秋などがいる。

正室は細川藤孝の娘・加賀。継室は福富内記の娘。子に俊治(三男)、延次(四男)、俊之(五男)、俊重(六男)、娘(桜井松平忠重正室)、娘(木下利當正室)、娘(松梅院某室)、娘(吉田元智室)、娘(堀某室)、娘(古沢某室)。

経歴

はじめ父や兄らと共に豊臣秀吉に仕えた。そのときの所領は500石であった。また、父・木下家定が城主を務める姫路城の城代を任される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には東軍に属し、父・家定の姫路城を守備。そのとき家臣の一部が田辺城の戦いに出陣している(この行動がしばしば『西軍』と誤解されるが、これについての扱いは謝罪のみで済んでいる)。なお、そのときはまだ西軍所属と思われる弟・小早川秀秋の姫路城入城を拒んでいる。なお、田辺城戦後は、義兄・細川忠興とともに小野木重勝福知山城を攻め落とし、徳川家康から豊後日出3万石を与えられ日出藩初代藩主となり、慶長7年(1602年)に細川忠興や父・家定の支援を受け日出城を築城した。また、江戸城普請にも加わり、大坂の陣にも徳川方として参加した。

また、命名が祖母と妻の法名に関連する松屋寺を建造、戦渦に巻き込まれた井手八幡宮の再建に貢献。当時の大名の生活や政情を記した『慶長日記』と呼ばれる資料も遺している。

肥後熊本藩主・加藤忠広の改易では稲葉一通と共に八代城の在番を務めている。島原の乱(1637年)にも天草四郎率いる軍を討伐するため、出兵している。

寛永19年(1642年)、江戸にて死去、跡を三男・俊治が継いだ。

なお、延俊の没後、彼の遺領のうち速見郡立石5,000石が四男・延次に分け与えられている。

慶長日記

延俊は通称『慶長日記』と呼ばれる日記を残しており、慶長18年(1613年)の元旦から大晦までの1年間が1日も欠かさず記されたもので(実際の記載は延俊本人ではなく家臣の祐筆)、当時の大名の生活や翌年に迫った大坂の陣に至るまでの歴史的背景を詳しく知ることができる。

そこには、江戸で第2代征夷大将軍・徳川秀忠より馬や鷹狩りの獲物を拝領し、そして本多正信ら幕府重臣や古田織部蜂須賀至鎮らとも面会、また駿府では初代将軍だった大御所・徳川家康に謁見している記述などがある。京都では叔母・高台院より贈り物をもらい、さらに訪れた実家では母・雲照院の食事・入浴の記述もある。ほか、織田有楽及びお忍びで大阪で豊臣秀頼にもお目通りしている記述が見られる。また、この中には新免無二が登場し、延俊に兵法を教えたことも記されている。

関連著書

  • 二木謙一『慶長大名物語―日出藩主木下延俊の一年』(角川書店、1990年)

関連項目

外部リンク

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