小野木重勝

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小野木 重勝(おのぎ しげかつ)は、安土桃山時代武将豊臣氏の家臣で、丹波福知山城主である。は公郷、重次とも。

生涯

永禄6年(1563年)に生まれる。出自は不詳であるが、丹波の国人赤井直正によって討たれた兎ノ木縫殿介の一族とする説がある。羽柴秀吉がまだ近江長浜城主だった頃に直参の黄母衣衆、のちに大母衣衆となり活躍した記録がある。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、伊勢神戸城山城淀城を守備した。天正13年(1585年)、従五位下縫殿助に叙位・任官される。

天正17年(1589年)、石田三成らと共に美濃の検地を務めている。天正18年(1590年)、小田原征伐にも参加し、天正20年(1592年)からの文禄の役にも参加して渡海し、晋州城攻撃に参加した。文禄3年(1595年)、丹波福知山4万石の城主に封じられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては豊臣恩顧の大名として西軍に与し、7月には大坂鰻谷町橋を守備し、のちに但馬や丹波の諸大名・1万5000の軍勢を率いて細川藤孝が守る丹後田辺城(舞鶴城)を攻撃し、これを開城させた(田辺城の戦い)。しかしながら9月15日の本戦では西軍が敗北したため、丹後田辺城から福知山城に撤退する。しかしほどなく細川幽斎の子忠興木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城する。篭城の間井伊直政前田茂勝を通じて徳川家康に助命を請うていたが、忠興によって丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵(現・寿仙院)において自刃させられた。享年38。また、自刃の知らせを聞き、妻も自害して果てたという。

首は京都三条河原に曝された。墓は自刃した亀岡市の寿仙院にある。