日出城

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テンプレート:Infobox 日出城(ひじじょう)は、現在の大分県速見郡日出町にあった江戸時代を通して、木下氏が居城した。明治初期の府藩県三治制下において日出藩の藩庁が置かれた。

歴史

1602年慶長7年)に日出藩の初代藩主木下延俊が義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。別名「暘谷城」と呼ばれ、3代木下俊長中国の古書、『淮南子』から引用して名づけたと伝えられる。

1874年明治7年)の廃城令において廃城処分となり、本丸に開校した暘谷学舎(現在の日出小学校の前身)の建物に利用された望海櫓と鬼門櫓を除いて建物は破却や移転によって撤去された。そののち、1921年(大正10年)日出尋常小学校の校舎建替えに伴い望海櫓は取壊し、鬼門櫓は中村家へ引き取られ移築された[1]

その内、二の丸に所在する徳永家に移築されていた裏門櫓(鐘櫓)が2000年(平成12年)に解体保存され、2010年(平成22年)に二の丸に移築復元された[2]

2013年(平成25年)には鬼門櫓が二の丸の町立萬里図書館の敷地内に移築復元されている[3]

構造

城は、別府湾に突出した南端の台地に本丸、その東・西・北三方をコの字に囲むように二の丸、その東に三ノ丸を配置した梯郭式平山城で、本丸には三重天守と5基の二重櫓、平櫓1基、大手門から多聞櫓(長屋)を隔てた南部に御殿が建てられていた。

天守

1602年に建てられた天守は、付櫓を付属する複合式の破風のない層塔型で、初重が南北9間半、東西8間、2重目が南北6間、東西5間、3重目が南北5間、東西4間。外観3重、内部は3階であった。このように最下重が上重の逓減を逸脱して大きく造られており、小倉城天守や名古屋城大天守などと同じく、望楼式から層塔式の天守に移行する時期の特徴を持ったものであったと考えられている。

遺構

現存建築
  • 北東隅櫓(鬼門櫓) - 二重櫓。4間四方(柱間)。日出町立萬里図書館敷地内に移築現存。日出町の有形文化財に指定されている。
  • 裏門櫓(鐘櫓) - 平櫓。南北桁行3間、東西梁間2間。二の丸館敷地内に移築現存。
  • 御裏門 - 櫓門。1階の門部分が龍泉寺の山門として移築され現存。
史跡
  • 本丸 - 石垣は南側の天守台、望海櫓跡などの部分や東側の天守台から裏門櫓台跡にかけての部分など大部分が現存するが、小学校の拡張によって東側の石垣および大手、御裏門虎口石垣の石垣が撤去され現存しない[1]。日出町の史跡に指定されている。大手の土橋に蒲鉾塀と呼ばれる石塀が現存する。その他西と東の空堀、北東部の水堀は一部が小学校のプールの敷地として利用するために埋め立てられているが現存する。
二の丸、外郭の遺構は不詳。

ギャラリー

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. 1.0 1.1 平井聖監修『城 九州沖縄8 火燃ゆる強者どもの城』毎日新聞社 1996年
  2. テンプレート:Cite webテンプレート:リンク切れ
  3. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ