小倉城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区にあったである。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。

概要

小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興南蛮造天守などを建てた。

本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建物は、野面積み石垣の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然のとして活用し城内に町を取り込んだ総構えを採っていた。現在、一部の石垣・堀が残り、天守・庭園大名屋敷が再建されている。ちなみに従来の構造は北九州市立いのちのたび博物館にある全体模型でうかがい知ることができる。

天守

天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。大天守は最上階外廻縁が幕府への遠慮により重数を少なく見せるために、また、雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。最上層の入母屋破風を除き、破風の一切無いものであった。

天保8年(1837年)に失火によって御殿と共に焼失し、天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていたとされる[1]。現在見られる天守は昭和30年代に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。設計考証は藤岡通夫である。破風などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。

歴史

  • 最初の築城年代は明らかではないが文永年間(1264年 - 1274年)に緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。
  • 1330年元徳2年)には黒崎土佐守景経が居城、のち大内氏の持城となる。
  • 1442年嘉吉2年)に太宰少弐頼冬が攻略をかけ、文明年間(1469年 - 1486年)には菊池氏が居城とした。
  • 1587年天正15年)、豊臣秀吉の家臣であった森勝信豊前国小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。この当時の城の様子については、記録がなく詳しく分かっていない。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に変えて中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
  • 1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。初め中津城に入城するが、1602年から7年かけて40万石(正確には39万9千石)の大名の居城として、毛利氏の小倉城を改築し、そこに居城した。なおこの時城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は主として侍町、東は町人や下級武士達の町とした。
  • 1632年寛永9年)、細川家肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が15万石を領し、小倉城にはいる。以後、小倉藩藩主の居城となる。
  • 1837年天保8年)、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されず。
  • 1863年文久3年)4月、海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川河口両岸に砲台(東浜台場・西浜台場)を建設[2][3]
  • 1866年慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避。家老以下の藩首脳は香春で指揮を執った。
  • 1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなったため、以後も藩庁は香春に置かれ、お茶屋(藩主巡察時の滞在施設)を中心に付近の町人宅をも借り上げて設置された(その後、1870年明治2年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転)。
  • 1875年(明治8年)、陸軍歩兵第14連隊歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれる。
  • 1898年(明治31年)、陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられる(1925年大正14年)久留米に移転)。
  • 1934年昭和9年)、八坂神社が鋳物師町より城内に遷座された。
  • 1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリート構造で天守が外観復興された。内部は郷土資料館として利用された。
  • 1990年平成2年)、内部全面リニューアル、ジオラマ・からくりシアター等を導入し、体験型施設に変更された。
  • 1998年(平成10年)、小倉城庭園および北九州市立松本清張記念館が開館した。
  • 2004年(平成16年)春から秋にかけての調査により、篠崎口から清水門の外堀で畝堀と堀障子が発見される。忠興当時のものと考えられている。
  • 2007年(平成19年)、瓦屋根約9万枚を全面葺き替え。

ギャラリー

テンプレート:Wide image

祭事・イベント

  • 小倉城薪能 - 9月下旬
  • 北九州小倉城まつり - 10月中旬

借景

北隣にリバーウォーク北九州が完成して以来、中央図書館側からは城の背景にリバーウォークの赤い建物が見える。

遊園地

1960年昭和35年)から10年間、小倉城内(現在北九州市役所が建っているあたり)に遊園地が設置されていた[4]。「小倉城とジェットコースター」(昭和37年頃)という絵葉書が残されている。[5]

メディアへの登場

プラモデル
フジミ模型株式会社からフジミ建築モデルシリーズ天下の名城No.6として1/400スケールでプラモデルが製造販売されている。
NHK地デジCM「地デジ侍 テレビ維新の巻」
劇団ギンギラ太陽'Sが出演、加賀美幸子ナレーションを担当。制作にあたったのは地元北九州局ではなく福岡局であったが、ロケシーンは城前と小倉城庭園で撮影された。2分版の最後のシーンにはハローワーク小倉が移転した跡に建てられた超高層アパートの上層が映りこんでいる。

交通

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

  • 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  • 土井重人『大庄屋走る 小倉藩・村役人の日記』海鳥社、2007年、182頁-183頁
  • 白石壽『小倉藩家老 島村志津摩』海鳥社、2001年、36頁・73頁
  • 小倉城(昭和39年九州発、読売新聞)
  • 「ふくおか絵葉書浪漫」益田啓一郎 編(海鳥社刊)91頁 ISBN 4-87415-491-3