高台院
高台院(こうだいいん、天文16年(1547年)?[1] - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。
目次
概要
一般には北政所(きたのまんどころ)という通称で知られる。「北政所」と呼ばれた人物は歴史上数多く存在したが、彼女以降はこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。
戦国時代まで、主婦権を持つ正妻が武家の家政をとり行い、高台院も羽柴家の家政をとりしきっていた。
諱には諸説ある。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「おね」と呼ばれることも多い(諱についての論議参照)。また甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。
天正16年(1588年)、従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(諱を参照)。[2]法名は高台院湖月心公。
生涯
- 幼少時
- 尾張国の杉原定利・朝日殿の次女として生まれる。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。
- 叔母の嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝・七曲殿の養女となり浅野家(後の広島藩浅野家)の娘となる。
- 秀吉との結婚
- 永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。ふたりの間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。その中でも加藤清正と福島正則は特に有名。
- 永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取り、石松丸秀勝をなしている。
- 長浜城への転居
- 天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。
- 天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り、秀吉と再会する。
- 大阪城への転居
- その後、秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。
- 天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。
- 文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役への日本の補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。
- 秀吉の没後
- 慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して秀頼の後見にあたった。慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移徙した(「義演准后日記」「言経卿記」)。関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により勧修寺晴子准后の屋敷に駆け込むという事件もあった。合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した(「三本木」(現京都御苑内南西付近)に隠棲したとの説もあるが根拠不明)。元和初期の様子を描いたとされる地図「中むかし公家町之図」ではほぼ現在の京都御苑仙洞御所・大宮御所エリアを「高台院殿(屋敷)」とし、その南方には使用人の住居と思われる「高台院殿町屋」が建ち並んでおり、隠棲後の暮らしぶりの一端を伺わせる。秀吉から河内国内に与えられていた大名並みの1万5,672石余の広大な領地は、合戦後の慶長9年に養老料として家康から安堵されている。この時石高は1万6,346石余に微増。
- 落飾して高台寺へ
- 慶長8年(1603年)、養母の死と、秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。慶長10年(1605年)、実母と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立し、その門前にも屋敷を構えた。大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、木下利房が護衛兼監視役として付けられた[3]。そして、身動きを封じられたまま元和元年(1615年)、大坂の役により夫秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績で備中国足守2万5千石藩主に取り立てられた)。だが徳川家との関係は極めて良好で、秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。またなお公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物が皇居に届けられたことが、「御湯殿のうえ日記」から知れる。
- 高台院屋敷にて死去
- 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。なお最晩年に木下家から甥利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えたため、遺領約1万7,000石のうち3千石分は利次によって近江国内において相続された。羽柴利次となった利次であったが、養母北政所の没後、羽柴を称することを江戸幕府から禁じられ木下に改称する。子孫は江戸時代も旗本として続いた。
- 実家である杉原家は、秀吉により「木下」に改姓させられたが、甥(家定の子)らが興した足守藩・日出藩の両木下家は、江戸時代を通じて小大名として存続した。親戚の杉原家も小領主ながら幕末まで残った。足守木下家からは歌人木下利玄が出ている。婚家である豊臣姓大坂羽柴家の直系は断絶したものの、養家である浅野家には傍流で女系ではあるが、豊臣姓羽柴家の傍系の血が入り、大大名広島藩浅野家として江戸時代も繁栄した。なお、この傍流の血は九条家を通して現在の皇室まで存続している。
人物
- 秀吉とは政略結婚が普通であった当時としては珍しい恋愛結婚だったと言われている。資料によると2人は「野合で結ばれた」と書かれており、これは縁談などが全くない恋愛だったことを意味している。もっとも当時の秀吉の身分はまだ非常に低く、ねねの実家杉原家もさほどの身分でなかったため、ある程度の自由恋愛も可能だったと思われる。それでも結婚時点での身分は、ねねの方がずっと上であった。
- ねねと秀吉の結婚に彼女の実母・朝日が猛反対していたために、やむなく親類の浅野長勝の養女となって結婚した。朝日は生涯2人の結婚を認めることはなかった。
- 一方秀吉の母であり、ねねにとっては姑に当たるなかとは、実の母娘のように仲が良く、なかの死去まで同じ屋根の下で暮らしていた。
- 夫の主君・織田信長とは個人的に親しかったらしく、信長が安土に移った頃、ねねから秀吉の浮気を訴えられた信長は彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、秀吉とねねの夫婦仲をうかがわせる数少ない史料である。大意は以下の通り。
- 「…この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…」
- 豊臣政権においては「糟糠の妻」の功績から大きな発言力と高い政治力を持っていた。彼女自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちには色々と便宜を図っており、ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで記している(『日本史』)。なお、フロイスはその『日本史』の中でねねを「王妃」もしくは「女王」と表現している[4]。
- 関白就任後の秀吉に対し、諸大名の面々の前で尾張訛りの口喧嘩をしたとの逸話もある。秀吉と2人きりのときは、お互いに尾張弁丸出しで会話したという。
- 豪気な性格だったと見え、初めての聚楽第訪問を終え大坂城に滞在していた毛利輝元一行のもとに、聚楽第の北政所から夥しい量の酒肴が届けられている(「輝元公上洛日記」)。
- 秀吉はかなり筆まめで、ねね宛の手紙が多数残っている[5]。
- 甥の秀秋を可愛がっていないことをたしなめる秀吉からの手紙が現存している。
- 実子がいなかったせいもあってか、一族の子女を可愛がり、特に兄家定の子供らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。家定没後その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)(利房は関ヶ原合戦で西軍に属したため、勝俊は伏見城守護の任にありながら開戦直後に退去して家康の怒りを買ったため、いずれも改易され浪人中)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている(当代記には、家康はこの時、怒りのあまり「近年、政所老気違」と言ったと記されており、慶長年録では「政所老耄か気違」と言ったと記されている)。これは、高台院と家康が俗説で考えられているような親密な関係ではないことを証明する事件である。家康は豊国廟を破却するなどの行為も行っている(白川亨「石田三成とその子孫」)。なお、この所領は仲介をした長政の息子浅野長晟に与えられた。利房はのちに大坂の役の功により父の遺領を与えられて、大名に復している。
- 高台院を手厚く保護したのは家康ではなく、秀忠である。「平成杉原氏御系図附言簒」に、秀忠が12歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった高台院と孝蔵主が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)、そのため秀忠は終生上洛するたびにまず高台院を訪ねていることが記されている。高台院が秀吉から与えられ家康に安堵された領地は、家康死後の元和3年には1万6,923石余にまで増えている。ちなみに寛永6年に譲位した後水尾上皇のために幕府が用意した御料地は3千石(のちに加増されて1万石)であった。
- 幼時から愛育した小早川秀秋が死去した際には西洞院時慶に「痛(悼み)」の文章を依頼している。なお、高台院の葬儀に際しては、長嘯子と利房が棺を担いだと伝える。
- 前田利家の正室の芳春院とは親密な関係であったという。また、山内一豊の正室見性院とも長浜時代以降親しく交わったといい、見性院は晩年を高台院屋敷の近くの屋敷(現京都地裁付近)で送っている。
淀殿との関係
ねねは秀吉の正室であったが、二人の間に子どもを産むことがなかったため、一時秀吉に辛く当たられていたことがあり、また秀吉の側室である淀殿とは激しい対立関係にあったという説がある。ただし、近年の田端泰子や跡部信らの研究では、両者はむしろ協調・連携した関係にあったのではないかと指摘されている。
関ヶ原の戦いでも淀殿との対立関係から東軍(徳川家康率いる福島正則などのいわゆる武断派)のために動いたとするのが通説であったが、近年の研究では淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されている。また、逆に石田三成らと親しく、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性を指摘する白川亨らの研究もある。その説の論拠として白川が挙げるのが次の事柄である[6]。
- 北政所周辺に西軍関係者が多い
- 西軍寄りと見られる行動を取っている
- 東軍諸将との関係が薄い
- 側近に東軍関係者が全くいない
- 『梵舜日記』(『舜旧記』)に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録が無い。
以上により諸説があり今のところ東軍側・西軍側いずれとも確定しないが、当時の北政所の関心が、政権の帰趨より、秀吉が実現した天下の平安を守ることと豊臣家の安泰を願うことにあったとすれば、合戦前後の彼女のさまざまな動きを解釈できる。
諱についての論議
諱については従前から「ねね」と呼ばれてきたが、昭和期に入って日本史学者の桑田忠親が北政所の自筆消息(手紙)の自署が「ね」一文字であることを理由に彼女の名は本来は「ね」(通称では接頭辞「於(お)」をつけて「おね」)であり、「ねね」は『太閤記』などによる誤記であるという説を唱えた。これに対して女性名の研究者としても名高い角田文衞は以下のように反論した。
- 当時の女性が自筆の消息に名の頭文字を1字だけ署名するのは普通に行われたことである。いわゆる細川ガラシャ夫人(明智たま)の消息の上書の署名には「た」1字が書かれており、徳川秀忠の正室・崇源院(名はごう)が姉の常高院に宛てた消息でも「五」と自署している。ゆえに自署が「ね」1字であることをもってそれが本名であると言い切ることはできない。
- 鎌倉時代から江戸時代にかけて調べうる限りでの女性名を集めたが、「ね」なる一字名はただの1人も存在していない。一方、「ねね」は鎌倉時代あたりから現れ、非常に頻繁に用いられる女性名である(同時代にも栄姫(黒田長政継室)・禰々(諏訪頼重室)・珠姫(前田利常室)・南部直政室など複数見られる)。以上より、高台院の名は「ね」ではなく「ねね」の方が自然であろうと思われる。
ちなみにNHKの大河ドラマにおいては高台院が初めて登場した昭和40年(1965年)の『太閤記』以降、長年「ねね」が用いられてきたが、平成8年(1996年)の『秀吉』以降は、『功名が辻』を除いて[7]劇中では「おね」の呼称が使われている。
一族
その他
- 近年、京都東山の高台寺周辺の人気観光スポットを徒歩で繋ぐ参道が整備され「ねねの道」の愛称で親しまれている。
- 名古屋では信長・秀吉・家康を「三英傑」と呼び、毎年10月上旬に行われる「名古屋まつり」では彼らに扮した人物が登場するパレード(郷土英傑行列)があり、ここでの秀吉の相手役の女性は長らく「淀殿」とされてきた(信長には「濃姫」、家康には「千姫」)が、これも近年「ねね」に変更された。このことからも地元でも彼女の歴史的評価は以前より高くなっていると言えよう。
- 現在、彼女の遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に眠っている。
脚註
参考文献
- 『ねねと木下家文書』山陽新聞社、1982年
- 跡部信「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』34)
- 津田三郎『北政所-秀吉歿後の波瀾の半生』中央公論社 ISBN 4-121011-97-X
- 田端泰子「北政所寧子論」(『日本中世女性史論』、塙書房 ISBN 4-8273-1177-3)、『北政所おね』ミネルヴァ書房 ISBN 978-4-623-04954-7
- 福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房 ISBN 4-623-04810-1
関連作品
映画
- 新忍びの者(1963年、大映、監督:森一生、演:細川ちか子)
- ホラ吹き太閤記(1964年、東宝、監督:古沢憲吾、演:浜美枝)
- 利休(1989年、松竹、監督:勅使河原宏、演:岸田今日子)
- 梟の城(1999年、監督:篠田正浩、東宝、演:岩下志麻)
- 茶々 天涯の貴妃(2007年、東映、監督:橋本一、演:余貴美子)
- 清須会議 -(2013年、東宝、監督:三谷幸喜、演:中谷美紀)
テレビドラマ
- 高台院が主人公のテレビドラマ
- その他のテレビドラマ
- 太閤記(1965年、NHK大河ドラマ、演:藤村志保)
- 青春太閤記 いまにみておれ(1970年、日本テレビ、演:大原麗子)
- 春の坂道(1971年、NHK大河ドラマ、演:奈良岡朋子)
- 新書太閤記(1973年、テレビ朝日、演:山本陽子)
- 国盗り物語 (1973年、NHK大河ドラマ、演:太地喜和子)
- 黄金の日日(1978年、NHK大河ドラマ、演:十朱幸代)
- 関ヶ原(1981年、TBS大型時代劇スペシャル、演:杉村春子)
- 徳川家康(1983年、NHK大河ドラマ、演:吉行和子)
- 真田太平記(1985年、NHK新大型時代劇、演:津島恵子)
- 太閤記(1987年、TBS大型時代劇スペシャル、演:名取裕子)
- 独眼竜政宗(1987年、NHK大河ドラマ、演:八千草薫)
- 徳川家康(1988年、TBS大型時代劇スペシャル、演:岩下志麻)
- 織田信長(1989年、TBS大型時代劇スペシャル、演:かたせ梨乃)
- 春日局(1989年、NHK大河ドラマ、演:香川京子)
- 信長 KING OF ZIPANGU(1992年、NHK大河ドラマ、演:中山美穂)
- 天下を獲った男 豊臣秀吉(1993年、TBS大型時代劇スペシャル、演:財前直見)
- 琉球の風(1993年、NHK大河ドラマ、演:柾木良子→田中燁子)
- 織田信長(1994年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:吉川十和子)
- 豊臣秀吉 天下を獲る!(1995年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:風吹ジュン)
- 秀吉(1996年、NHK大河ドラマ、演:沢口靖子)
- 葵 徳川三代(2000年、NHK大河ドラマ、演:草笛光子)
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年、NHK大河ドラマ、演:酒井法子)
- 武蔵 MUSASHI (2003年、NHK大河ドラマ、演:小林由利)
- 太閤記 サルと呼ばれた男(2003年、フジテレビ、演:国仲涼子)
- 功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ、演:浅野ゆう子)
- 太閤記〜天下を獲った男・秀吉(2006年、テレビ朝日、演:星野真里)
- 明智光秀〜神に愛されなかった男〜(2007年、フジテレビ、演:小西真奈美)
- 天地人(2009年、NHK大河ドラマ、演:富司純子)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年、NHK大河ドラマ、演:大竹しのぶ)
- 軍師官兵衛(2014年、NHK大河ドラマ、演:黒木瞳)
ゲーム
漫画
アニメ
関連項目
外部リンク
テンプレート:Japanese-history-stub- ↑ 生年は他に天文11年(1542年)・天文17年(1548年)・天文18年(1549年)などそれぞれ諸説あり。
- ↑ 「高台寺文書」(村川浩平『日本近世武家政権論』P42)
- ↑ 『寛政重修諸家譜』第十八 江戸幕府編、続群書類従完成会 p138
- ↑ 松田毅一・川崎桃太らは違和感をやわらげるため、「女王」を「羽柴夫人」「関白夫人」と翻訳している。(『完訳フロイス日本史4』の凡例より)
- ↑ 『歴史秘話ヒストリア』2010年9月22日放送分テンプレート:出典無効
- ↑ 「石田三成とその一族」など
- ↑ 当初は「おね」が使われる予定だったが、原作(司馬遼太郎著)に忠実にするという理由で再び「ねね(実際は漢字表記の寧々)」に戻された。なお、2009年の『天地人』では台詞で「おね」と呼ばれるシーンはあるが、本格的な登場が「北政所」を名乗った後の事であったため、「おね」とクレジットされることはなかった。テンプレート:出典無効