喜多院
喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。
良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物はほとんどが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はもちろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。
歴史
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。後伏見天皇は東国580寺の本山としての勅書を下し、後奈良天皇は星野山の勅額を下した。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)の廟もある。
建築物
- 客殿(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。
- 書院(重要文化財) - 寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。
- 庫裏(重要文化財) - 寛永15年(1638年)建立。
- 山門(重要文化財) - 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。
- 鐘楼門(附:銅鐘)(重要文化財) - 元禄15年(1702年)建立。
- 慈眼堂(重要文化財) - 正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。
- 仙波東照宮(重要文化財)
- 慈恵堂(県指定有形文化財(建造物))
- 多宝塔(県指定有形文化財(建造物))
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鐘楼門
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慈眼堂
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多宝塔
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五百羅漢
文化財
- 国の重要文化財
- 客殿(附:渡廊)
- 書院
- 庫裏(附:玄関・玄関広間・渡廊及び接続室〔合1棟〕)
- 慈眼堂(附:厨子)
- 鐘楼門(附:銅鐘)
- 山門(附:棟札)
- 紙本著色職人尽絵 六曲屏風一双 狩野吉信筆
- 宋版一切経 4,686帖
- 太刀 銘友成(附:糸巻太刀拵)
- 銅鐘 正安2年(1300年)銘
所在地
交通アクセス
一部施設の拝観について
客殿、書院など、一部施設の拝観については拝観時間・拝観料が設定されている。詳細は外部リンクの節にある公式サイトにて確認されたい。