鎖国

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鎖国(さこく)とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは「通信」の関係にあり、中国(明朝清朝[脚注 1]及びオランダ[脚注 2]オランダ東インド会社[脚注 3])との間に通商関係があった。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。

一般的には1639年寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。但し、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降のことであり、近年では制度としての「鎖国」は無かったとする見方が主流である[参考 1]

なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた[脚注 4]

語源

「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年~1806年)が、1801年成立の『鎖国論』」(写本)において初めて使用した[参考 2][参考 3]1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後に日本に関する体系的な著作の執筆に取り組み、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された[参考 4]。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した[参考 5][脚注 5]。 この「鎖国」という語はその際の新造語であるが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まることは無かった。

実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年、本格的に定着していくのは1858年以降とされている[参考 6]。さらに一般に普及する時期は明治時代以降である[参考 7]


経過

鎖国完成まで

「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。

  • 1612年(慶長17年)幕領に禁教令
  • 1616年元和2年)朝以外の船の入港を長崎平戸に限定する。
  • 1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
  • 1624年寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
  • 1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
  • 1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中奉書が必要となった。
  • 1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
  • 1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
  • 1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[参考 8]
  • 1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
  • 1637年1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
  • 1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]
  • 1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
  • 1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
  • 1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
  • 1644年正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の李自成を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
  • 1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
  • 1673年延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

鎖国中の貿易(四口)

鎖国は、貿易の権限を徳川幕府が制限・管理した政策である。鎖国の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を四口などと呼んだ。

長崎口:対オランダと対清朝中国長崎会所天領)経由
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長崎は幕府の直轄地として幕府の管理で貿易が行われた。
対馬口:対李氏朝鮮対馬藩経由
対馬藩宗氏中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。
薩摩口(琉球口):対琉球王国薩摩藩経由
薩摩藩琉球王国攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。
蝦夷口:対アイヌ松前藩経由
松前藩松前氏蝦夷地で北方貿易を行ってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられている[脚注 6]

鎖国実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。1604年には糸割符制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は1655年に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、1672年貨物市法を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに1685年には定高貿易法により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済(代物替)を条件に交易を許すようになったが、1715年海舶互市新例により代物替が原則とされた。また、定高は1742年1790年の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった[参考 10]

いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩対馬藩薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、新井白石徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(竹島事件)。

開国までの動きと鎖国の終焉

18世紀後半から19世紀中頃にかけて、ロシア帝国イギリスフランスアメリカ合衆国などの艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、その多くは拒否された。しかし、1853年7月8日には浦賀アメリカマシュー・ペリー率いる黒船が来航し、翌1854年3月31日には日米和親条約が締結され、終に開国に至った。その後、日米修好通商条約1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、「鎖国」は崩壊したのである。

ファイル:VincennesYedoBay1846.PNG
日本人が描いたコロンバス号と米国水兵

なお、学問や商業目的の海外渡航が解禁されたのは1866年5月21日(慶応2年4月7日)のことであった。また、外国人の居住が自由になるのは、正式には内地雑居が認められる1899年(明治32年)7月16日である。

当初の「鎖国」の主目的であった「キリスト教の禁止」は、日米修好通商条約において居留地における教会建設と居留アメリカ人の信教の自由が認められたが、明治政府もしばらくは禁教政策を続けており、日本人に対する禁教が解かれたのは1873年(明治6年)であった。

背景

南蛮貿易の開始

朝中国は海禁政策をとっていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年マカオに居留権を得て中国産品(特に)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。

徳川家康が政権を握ると、オランダイギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまり無かった。結果イギリスは1623年に日本を撤退、オランダの場合も、日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[脚注 11]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。

キリスト教の禁止

ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島スペインポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時の権力者であった織田信長はこれを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年バテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)。

家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由は無くなった。また、1612年岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。

当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、とりわけ当時独立戦争の只中にあったオランダは直近にカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けた歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識が強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。

とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。

なお、キリスト教に関しては、単に国内で禁止するだけでなく、海外のスペイン・ポルトガルの根拠地を攻撃する計画もあった。当時オランダ商館の次席であったフランソワ・カロンは1637年9月、長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオマニラ基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく長崎代官末次茂貞は、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛を要請している[参考 22]。しかし、この計画は翌年の島原の乱で立ち消えとなった。

島原の乱

徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された(ポルトガルは出島使用料を年額銀80貫払っていたが、オランダは55貫にまけさせている)。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した[脚注 12]

しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。

貿易の管理

戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。

また現代的視点では、長崎の出島を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究があるテンプレート:要出典。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた[参考 23]

「鎖国」に対するオランダの認識

「鎖国」後しばらくの間オランダは、デンマークやフランスのようなプロテスタント諸国が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのでないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元オランダ商館長で滞日期間が20年を超えており1667年フランス東インド会社の長官に就任したフランソワ・カロンが「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している[脚注 13]。また英国船リターン号1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前にオランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた[参考 24]

鎖国祖法観

「海外との交流を制限する体制を、自己の基本的な外交政策とする」との明確な認識(「鎖国」祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、19世紀初頭のレザノフ事件をきっかけにしているという説もある[参考 25]。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は現在のところ1853年と指摘されており[参考 26]、「鎖国祖法」と言うのは後世の研究者による造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている[参考 27]

近年の研究

近年、従来の「鎖国」概念を廃し、一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序を再編したものとする考え方が提唱された[参考 28]。さらに最近の研究動向では、〈鎖されていなかった徳川日本を「鎖国」と呼んできた歴史〉を歴史化し、それを〈日本人〉のアイデンティティと密接に関係する言説と捉え、その形成史を解明した研究が登場した[参考 29]。また、その意味合いにおいて、「鎖国」のみならず「開国」をも言説と捉え、その形成史を追究する試みも展開されている[参考 30]

なお海外との交流・貿易を制限する政策は徳川日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られた。現代歴史学においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり[参考 31]、安易に従来の用語を変える動きに対する批判もある[参考 32]

脚注

  1. 当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可は無く、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。
  2. ネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年ヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。
  3. 本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている
  4. 清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。
  5. ケンペルは上述の論文において、キリスト教的立場に反し、いわゆる「鎖国」体制を肯定する立場を採った。それは次のケンペルの背景を踏まえねばならない。まず、ケンペルは三十年戦争直後の荒廃した地方都市レムゴー(Lemgo)に生まれ、また、そこで遅くまで魔女狩りが残っていたことにより叔父が処刑された経験を持っており、戦争に対する思いやキリスト教に対する疑いの眼差しを持っていた。さらにケンペルは、各地を旅行することで比較文化の眼も養っていた。そのような背景を有するケンペルは、短期間の滞在(1690年~1692年)と限られた情報源の中で、厳格な処罰により〈平和〉が保持されていた第5代将軍徳川綱吉治世の状態を誤解したことから上述の見解(論文)が生まれた。
  6. 北方貿易はアイヌとの交易であるが、アイヌは宗谷海峡間宮海峡を超えてシベリアとの交易をも行っており、間接的にはシベリアにある清の出先機関と繋がっていた。
  7. 現在、和歌山県串本町紀伊大島にはケンドリックの来航を記念した日米修交記念館がある。
  8. 1795年、オランダ本国(ネーデルラント連邦共和国)はフランスの侵攻により滅亡し、衛星国バタヴィア共和国が誕生した。オランダ東インド会社の日本支店に当たるオランダ商館の権利もバタヴィア共和国に移ったが、これは英国と敵対関係となることを意味し、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなった。そこで1797年よりオランダ東インド会社は米国船と傭船契約し、アメリカのセーラムと米国船にて貿易を継続した。なお、当時の国際関係において米国船籍は、中立国の船として英国もその航行を認めた。但し、長崎入港時にはオランダの国旗を掲げ、名目上はオランダとの通商を行なっていることとした。1799年オランダ東インド会社が解散するとオランダ商館は雇い主を失ない、米国船との貿易は1809年まで続いた。(詳しくは黒船来航を参照)。幕府はこのあたりの事情は理解していたが、「見て見ぬふり」をしており、本国がフランスに占領されている間(バタヴィア共和国は1806年にナポレオンの弟のルイ・ボナパルトを王とするホラント王国になり、さらに1810年にはフランスに完全に併合された。オランダが再独立は1815年である。)、出島のオランダ商館は世界中でオランダ国旗が掲げられている数少ない場所となっていた。
  9. 1797年(寛政9年)、米国船エリザ・オブ・ニューヨーク号の船長ウィリアム・スチュワート(William Robert Stewart)は、バタヴィアから長崎までオランダの荷物を運んだ。エリザ・オブ・ニューヨーク号は出島出港数時間後に沈没したが、引き上げられた。しかし、その後の消息は不明となった。(毎日新聞 1974年2月4日(月曜日、http://www.geocities.jp/kiemon200/219-index.html)。1800年(寛政12年)、スチュワートはエンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に入港する。しかし、オランダ商館から、エンペラー・オブ・ジャパン号はエリザ・オブ・ニューヨーク号(要するにスチュワートが船を盗んだ)であると見抜かれ、交易を拒否された上、バタヴィアの牢に入れられたが、脱獄した。
  10. 他の米国船での貿易の例は以下の通り(東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』、1999年発行)。
    • 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
    • 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
    • 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
    • 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
    • 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
    • 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
    • 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
    • 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
    • 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
    • 1809年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
  11. 当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。
  12. オランダ船は聖書や十字架など船に積んであったキリスト教関係の品を、長崎入港前に投棄していた。
  13. 実際、カロン自身はフランスと日本との交易を考えており、アジア赴任にあたっては、将軍への献上品として消防ポンプを選ぶなど(江戸に火事が多いことを知っていたため)、その準備も行っていた。しかしながら、他のフランス人幹部がこれに反対したため、実現はしなかった。

参考文献

  1. 荒野泰典著『近世日本と東アジア』、東京大学出版会、1988年、など。
  2. 志筑忠雄訳『鎖国論』(写本)、享和元年(1801年)
  3. 検夫爾著、志筑忠雄訳、黒沢翁満編『異人恐怖伝』嘉永3年(1850年)刊、3冊(鎖国論を含む印刷された最初の本)。
  4. Heutiges Japan. Hrsg. von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel, 1/1, 1/2, München: Iudicium Verlag, 2001. (Textband und Kommentarband) (『今日の日本』[いわゆる『日本誌』]の原典批判版)ISBN 3-89129-931-1 。
  5. 大島明秀著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年
  6. 荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)、P212-213
  7. 大島明秀著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年
  8. 泰典 【Profile】
  9. 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)
  10. 浅田毅衛著『鎖国政策化の日本貿易』、『明大商学論叢』(第82巻第1号、2000年)、P28-p46
  11. McDougall, Walter (1993). "Let the Sea Make a Noise: Four Hundred Years of Cataclysm, Conquest, War and Folly in the North Pacific." New York: Avon Books. ISBN 978-0380724673
  12. ラ・ペルーズ著『ラペルーズ 太平洋周航記 上・下』 佐藤淳二訳、岩波書店、2006年、ISBN 978-4000088589、978-4000088596
  13. Black Ships Off Japan The Story Of Commodore Perry's Expedition (1946), by Arthur Walworth
  14. ゴロヴニン著、井上満訳『日本幽囚記』、岩波文庫全3巻、ISBN 978-4003342114、978-4003342121、978-4003342138
  15. 大島幹雄著『魯西亜から来た日本人―漂流民善六物語』、 廣済堂出版 ISBN 4331505561
  16. K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57
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  18. 松方冬子著『オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意』、『史学雑誌』(114巻9号、2005年09月20日)、p1497-1528
  19. 平尾信子著『黒船前夜の出会い---捕鯨船長クーパーの来航』日本放送出版協会<NHKブックス706>、1994年。ISBN 978-4140017067
  20. Polak著『絹と光: 知られざる日仏交流100年の歴史 (江戶時代-1950年代)』、婦人画報社、 2002. 10-ISBN 4-573-06210-6; 13-ISBN 978-4-573-06210-8; OCLC 50875162、 p.19
  21. ウィリアム・ルイス、村上直次郎 編\富田虎男 訳訂『マクドナルド「日本回想記」インディアンの見た幕末の日本』(刀水書房、1981年) ISBN 4-88708-005-0
  22. 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之三(上)
  23. 太田勝也著『鎖国時代長崎貿易史の研究』思文閣出版 (1992年)。ISBN 978-4784207060
  24. 松方冬子著『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 中公新書、2010年
  25. 藤田覚著『鎖国祖法観の成立過程』(渡辺信夫編『近世日本の民衆文化と政治』、河出書房新社、1992年)。ISBN 978-4-309-22217-2
  26. 荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)
  27. 大島明秀著『「鎖国祖法」という呼称』、『文彩』第6号、2010年
  28. Ronald P. Toby: State and diplpmacy in early modern Japan: Asia in the development of the Tokugawa Bakufu. Princeton University Press, 1984. 論文著者のロナルド・トビは最近、『「鎖国」という外交』 (全集 日本の歴史 9)小学館 (2008年) ISBN 978-4096221099、を著している。
  29. 大島明秀著『近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容』、 洋学史学会14, 1-32, 2006-03-00
  30. 大島明秀著『「開国」概念の検討―言説論の視座から―』、『國文研究』第55号、2010年
  31. 松方冬子著『オランダ風説書と近世日本』、東京大学出版会、2007年。ISBN 978-4130262156
  32. 村井淳志著『この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「鎖国」研究主流は「鎖国」という言葉を抹殺しつつあるが、本当にそれでよいのか?--「鎖国」研究史を追跡して思うこと』、社会科教育 46(9), 116-121, 2009-09

関連項目

外部リンク