ゴローニン事件

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ゴローニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記する)とは、日本の江戸時代にあたる1811年文化8年)、ロシアの軍艦ディアナ号艦長のゴローニンテンプレート:Lang-ru, Vasilii Mikhailovich Golovnin, ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン)が日本に抑留された事件。

経緯

ロシア帝国の東方拡張により18世紀には日露両国は隣国同士となり、蝦夷地を中心に両国は接触していた。日本との通商を求めるロシアに対し、日本の江戸幕府鎖国政策を堅持していたが、江戸時代中期には北方探査を始めた。1792年寛政4年)にはアダム・ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを伴い来日した。

露米会社を設立したニコライ・レザノフは日本人漂流民の津太夫一行を返還し、通商を求めるために来日し、1804年文化元年)9月に長崎へ来航。その後半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2年)3月に長崎奉行所において遠山景晋が対応し、通商を拒絶される。レザノフは漂流民を返還して長崎を去るが、1807年(文化4年)、テンプレート:仮リンクらロシア軍人2名を雇い択捉島樺太に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる(文化露寇)。幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整えさせて蝦夷地沿岸の警備を強化、北方探査も行う。ロシアではフヴォストフらは処罰されるが、日本の報復を恐れて日露関係は緊張した。1808年(文化5年)には長崎フェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。

1811年(文化8年)、松前奉行支配調役奈佐瀬左衛門は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留した。ゴローニンらを人質に取り、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長のテンプレート:仮リンクはロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌1812年(文化9年)に再び来日、8月には国後島においてゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶する。

リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留した。翌1813年(文化10年)9月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれている。

帰国したゴローニンは『日本幽囚記』を執筆し、各国語に翻訳される。その後も、幕府による異国船打払令が出されるなかロシア船は漂流民返還のために来航し、幕末には1853年嘉永6年)にプチャーチンが通商条約締結のため、長崎、下田へ来航する。

資料文献

  • 『ゴロヴニン 日本幽囚記』 井上満訳 岩波文庫全3巻、初版1943~46年、復刊1997年ほか。
    戦前の訳書で「菜の花の沖」は、この訳書を参照している。
  • 『ゴロウニン 日本俘虜実記  Василий Михайлович Головнин 』 全2巻、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1984年。
    訳者は樺太での抑留経験がある、品切中。
  • 『続日本俘虜実記 ロシア士官の見た徳川日本』 同訳、講談社学術文庫、1985年。リコルドによるあとがきを記す、品切中。
  • 『ゴロウニン 南千島探検始末記』 徳力真太郎訳、同時代社、1994年。幕府側に捕らえられるまでの記録、品切中。

事件を扱った文学

関連項目