間宮林蔵
間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。
経歴
常陸国筑波郡上平柳村(後の茨城県つくばみらい市)の小貝川のほとりに、農民の子として生まれる。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の末裔。
当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった間宮は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。寛政11年(1799年)、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地を測量した。文化3年(1806年)、択捉島の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のテンプレート:仮リンクたちに行わせた同島襲撃に巻き込まれた。文化4年(1807年)4月下旬、文化露寇(フォボストフ襲撃事件)に遭遇。文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。間宮はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。文化6年(1809年)、樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、樺太人から聞いた、何らかの役所が存在するという町「デレン[1]」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。 のち文化8年(1811年)、ゴローニン事件の発生に遭遇。文政11年(1828年)には勘定奉行・村垣定行の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。これを探検家が隠密に転身したかのように解釈する向きがあるがそもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、単に隠密としての諜報活動の場が変わったに過ぎない。石州浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行矢部定謙に報告し検挙に至らせる(竹島事件)。変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしている。浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋への潜入に成功している。ちなみに後に間宮は「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐している。
また、シーボルト事件を幕府に密告したとされている。天文方・高橋景保は間宮にとって大師匠にあたる高橋至時の息子であり、儒教道徳においては許し難い行動であり「さすがは冷酷な忍者である」[2]という非難がなされた。しかしこれは誤りで、当時、外国人との交通は届出しなければならず景保はこれを破ってシーボルトとやりとりしており、シーボルトから景保宛の書簡に間宮宛の包みも入っていたので林蔵は規定通り届け出たところ、景保とシーボルトの関わりが明らかになったという。
水戸藩へも出入りし、川路聖謨らと交友する。徳川斉昭や藤田東湖にも献策。
晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったという。梅毒を死因とする説もある[3]。
1904年(明治37年)4月22日、贈正五位。
墓所は東京都江東区の本立院にある。生前に自ら建てた、とされるこの墓には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれているが、文字は水戸藩主徳川斉昭が選したものであった。この墓は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で破損したが、戦後の昭和21年5月に拓本を基に再建された。
また、蝦夷地探査に先立って、両親の墓の隣に決死の覚悟を持って建てた、とされる生前墓が茨城県つくばみらい市上柳の専称寺にある。墓が建てられた正確な年代はわからないが、「間宮林蔵墓」と記された文字は、林蔵の自筆であると伝わる。すぐ傍には生家跡に隣接して、移築した生家および「間宮林蔵記念館」がある。
林蔵とアイヌ人女性との間に生まれた娘の子孫が現在でも北海道に在住している。間宮林蔵顕彰会によると郷土史研究家の調査で子孫と確認された[4]。
蝦夷地測量
伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたものになったという。
間宮林蔵渡樺出港の地碑
間宮林蔵が実際に樺太に渡った時、どこから出港したのかは不明なままだが、宗谷の地であることは確かだということで稚内市内の樺太を臨む海岸線に建てられている。稚内市内には、別に「間宮林蔵像」も生誕200年を記念して建てられた。
関連作品
- 吉村昭『間宮林蔵』講談社、1982 のち文庫
- 池波正太郎『北海の猟人』(短編集「炎の武士」収録)
- 北方謙三『林蔵の貌』
- みなもと太郎『風雲児たち』
- 石森章太郎『佐武と市捕物控』(辻真先による小説版)
- 瓜生卓造『間宮林蔵』
脚注
参考文献
- 洞富雄『間宮林蔵』吉川弘文館(人物叢書)1960
- 赤羽栄一『間宮林蔵 北方地理学の建設者』清水書院、1974 のち「未踏世界の探検・間宮林蔵」清水新書
- 小谷野敦『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』教育出版(江戸東京ライブラリー)1998