戦国大名
戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。
目次
概要
戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、1953年に専門誌である『歴史学研究』にて安良城盛昭(164号「太閤検地の歴史的前提(2)」)と菊地武雄(166号「戦国大名の権力構造」)があいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている[1]。
「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代の守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を統一する権力を有する。また、有力国衆など被官・家臣の統制を強化し家中(家臣団)を構成し、領国内において知行高に応じて軍役を課す貫高制を確立している。
最初の戦国大名は北条早雲の興した後北条家であり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。
独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停する分国法(戦国法)を制定するものもあり、特に戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される。このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。
特に守護大名が室町幕府より守護に任じられたという権威を背景にしており、その守護職は令制国単位であるため、その権威も守護に任じられた令制国内に限られるのに対して、戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において強固な支配権を確立した。軍事行動や外交などを独自の権限で行った。下克上により従来の守護を打倒して領国支配を確立した戦国大名もいる。
こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名を領国を主権的な「国家」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する(勝俣鎮夫ら)。
一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動し守護への補任を受ける事例も多い。こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、勝俣らの戦国大名を「地域国家」とみなす点には否定的な戦国期守護論も提唱されている(矢田俊文ら)。
一方で、戦国大名は武田信玄の信濃守護補任など地域支配への明瞭な影響の認められない事例も存在し、戦国大名は守護公権とは別に独自の大名権力をもっていたと評価されている。また、支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに 官位(武家官位)を獲得する戦国大名も多数存在しており、権威づけが守護職に限られないのも戦国大名の特徴である。これにより衰亡寸前だった天皇の権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期~安土桃山期の天下統一に少なからぬ役割を果たした。
戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に同盟関係を結び、また境界などをめぐって合戦を繰り広げた。こうした状況のなかで尾張国の織田信長は当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた(織田政権)。信長のあとには豊臣秀吉が天下統一を達成し、中央政権としての豊臣政権を樹立し、豊臣政権は諸大名家への介入を強め、戦国大名の独立性は否定されていく。
豊臣政権の後には徳川氏による江戸幕府が成立し、徳川氏は室町将軍家と同じく征夷大将軍職を世襲するが主従関係にある諸大名を守護に任じることは行わず、戦国大名は幕藩体制のもと近世大名へと移行していった。
戦国大名は以上の特徴をもつことが指摘されているが、一方で戦国大名論が研究されたものは主に東国地域であり、対して戦国期守護論は室町将軍の御分国で影響力の強かった畿内・西国を中心に展開されている。
東国地域は駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名に出自をもつ大名家から相模後北条氏のような非守護大名家の戦国大名も存在し、関東から東北地方には守護から国衆まで多様な出自で、なおかつ一国以下の郡規模の地域勢力が分立しており、戦国大名の定義には曖昧さが残されている点が指摘され、現在に到るまで検討が続けられている[2]。
出自
戦国大名の出自を概観すると、宇都宮氏・佐竹氏・今川氏・武田氏・土岐氏・六角氏・大内氏・大友氏・島津氏らのように守護大名に出自した例、朝倉氏・尼子氏・長尾氏・三好氏・長宗我部氏・神保氏・波多野氏・織田氏・松永氏らのように守護代やその臣・陪臣に出自した例が多数を占めたが、毛利氏・田村氏・龍造寺氏・筒井氏らのように国人層や宗教勢力に出自した例も多かった。その他、後北条氏・斎藤氏のように幕府吏僚・浪人に出自する者も少なからずいた。また、守護と関東管領を兼ねていた上杉氏の例や、北畠氏のように国司から、或いは土佐一条氏のように公家から戦国大名化した例もあった。管領や四職といった幕府の宿老の多くが勢力を失った背景には通常これらの大名は京都に在住し、守護代に領国を任せていた事が大きく関係している。
支配
戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させて城下町を形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、検地を実施して新たな租税収取体系を構築した。また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準として分国法を制定する者もいた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。
ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。室町時代中期頃から日本社会に広がった一揆は、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例は下克上と呼ばれた。
主な戦国大名
北海道・東北
(蝦夷地、陸奥、出羽) テンプレート:Col
関東
(常陸、下野、上野、下総、上総、安房、武蔵、相模、伊豆) テンプレート:Col
中部
(佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、甲斐、信濃、飛騨、美濃、駿河、遠江、三河、尾張) テンプレート:Col
近畿
(近江、若狭、丹後、丹波、山城、伊勢、志摩、伊賀、大和、紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、但馬、因幡) テンプレート:Col
中国・四国
(美作、備前、備中、備後、安芸、伯耆、隠岐、出雲、石見、周防、長門、讃岐、阿波、淡路、土佐、伊予) テンプレート:Col
九州
(豊前、豊後、対馬、壱岐、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩) テンプレート:Col
その他の勢力
寺院勢力
神社勢力
公家方(公家政権)
武家方(間接的に全国を支配した武家政権)
その他
- 堺衆など
現在の大名家
- 有馬氏 - 現当主:有馬匡澄
- 相馬氏 - 現当主:相馬行胤
- 真田氏 - 現当主 : 真田徹
- 長曽我部氏 - 現当主 : 長曽我部友親、元新聞記者
- 明智氏 - 現当主 : 明智憲三郎
- 宗氏 - 現当主 : 宗立人
- 北畠氏 - 分家らが本家滅亡後に復姓
- 最上氏 - 現当主 : 最上義治、画家
- 尚氏 - 現当主 : 尚衛
- 長野工藤氏 - 分家(雲林院氏)の存在が確認、宗家は滅亡
なお、ここに記したものが全てでない
脚注
- ↑ 荒川善夫「史料に見る東国戦国大名の類型」『戦国期東国の権力と社会』岩田書店、2012年 ISBN 978-4-87294-780-9(原論文:『千葉史学』34号(1990年))
- ↑ 例えば、市村高男や藤木久志は関東地方の戦国大名を後北条氏のような「統一権力」と結城氏・宇都宮氏・那須氏などの数郡程度の支配者である「地域権力」の2種類に分け、黒田基樹は「国主」として認知されていた両上杉氏(山内・扇谷)・後北条氏・里見氏および天正期に彼らとほぼ同等の支配体制を確立した佐竹氏のみを戦国大名とした。だが、実際には後北条氏・上杉氏・武田氏などが結城氏のような規模の武家に対して同格扱いの書札礼を用いた例や「大名衆」と「国衆」がほぼ同義あるいは同じ対象相手に対して用いられている例もあり、戦国大名の定義づけや類型化には複雑な問題を抱えている(荒川善夫「史料に見る東国戦国大名の類型」)。
参考文献
- 永原慶二『戦国大名』小学館、1975年
- 勝俣鎮夫『戦国法成立史論』
- 杉山 博『戦国大名』
- 小和田哲男『戦国大名』(中公新書637)、中央公論社、1981年12月。
- 『上杉謙信のすべて』
- 『武田信玄のすべて』
- 『毛利元就のすべて』
- 渡邊大門『戦国誕生―中世日本が終焉するとき―』講談社、2011年