徳川恒孝
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德川 恒孝(徳川 恒孝、とくがわ つねなり、1940年2月26日 - )は、徳川宗家第18代当主。松平一郎の次男。学習院大学政経学部卒業。学位は経済学士(学習院大学)。元日本郵船副社長。公益財団法人徳川記念財団初代理事長。WWFジャパン代表理事。公益財団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。元一般社団法人横浜港振興協会会長。
年譜
- 1940年(昭和15年) - 元御家門の会津松平家の一門に生まれる。徳川宗家に養子に入るまでの姓名は松平 恒孝。
- 1963年(昭和38年) - 17代家正(外祖父)の死去により家督を継ぎ、第18代当主に就任。
- 1964年(昭和39年) - 日本郵船株式会社に入社。
- 2001年(平成13年) - 日本郵船の取締役欧州大洋州事業部長から副社長に就任。
- 2002年(平成14年)4月 - 日本郵船を退社、同社顧問に就任。
- 2003年(平成15年)
- 2006年(平成18年)
- 4月1日 - 財団法人東京慈恵会会長に就任
- 2012年(平成24年)
系譜
- 父:松平一郎 - 御家門の会津松平家分家当主、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)元会長
- 母:松平豊子 - 徳川宗家家正の娘
- 兄:松平恒忠 - 日本英語交流連盟会長、日本フィンランド文化友好協会会長
- 弟:松平恒和 - 早稲田大学国際情報通信研究センター客員教授
- 義父・祖父:徳川家正 - 徳川宗家第17代、貴族院議長、外交官。外祖父で、実子の家英早世後に、養子縁組を結び養父となる。
- 義母・祖母:徳川正子 - 島津忠義の八女、外祖母、菊麿王妃常子、邦彦王妃俔子の妹、香淳皇后の叔母
- 祖父:松平恒雄 - 容保の四男、外交官、宮内大臣、初代参議院議長。一郎、勢津子の父
- 祖母:松平信子 - 鍋島直大の四女、常磐会会長。
- 曾祖父:徳川家達 - 徳川宗家第16代、貴族院議長ワシントン軍縮会議首席全権大使、第6代日本赤十字社社長。
- 曾祖父:島津忠義 - 島津久光の長男、島津氏第29代。祖母正子の父
- 曾祖父:鍋島直大 - 外交官、肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主、皇典講究所第4代所長
- 曾祖父:松平容保 - 祖父恒雄の父、京都守護職
- 伯父:徳川家英 - 家正の早世した嫡男、義兄に当たる
- 妻:徳川幸子 - 旧姓:寺島。元客室乗務員。元伯爵で寺島宗則の曾孫。寺島宗従の長女、元侯爵細川護立の外孫、元首相細川護熙のいとこ
- 長男:徳川家広 - 翻訳家、ベトナム人女性と結婚
- 叔母:秩父宮妃勢津子 - 一郎の妹
- 従弟:上杉邦憲 - 宇宙工学者、上杉家第17代当主、母方の叔母の子。
- はとこ:
- 黒田長久 - 黒田家先代、鳥類学者。山階鳥類研究所名誉所長。日本野鳥の会会長、黒田奨学会総裁、故人。以下その人物の祖父母が兄弟で、共に島津忠義の曾孫でその子供達の孫である。
- 松平直壽 - 松江松平家当主、同上
- 筑波常治 - 筑波家当主、元早稲田大学教授、同上
- 筑波常遍 - 真言宗山階派大本山勧修寺第45代長吏、常治の弟、同上
- 徳川宗英 - 田安徳川家第11代当主、作家、同上
- 徳川宗賢 - 言語学者、国語学者。大阪大学教授、学習院大学教授、国語学会代表理事、第21期国語審議会委員。宗英の弟、故人。同上
- 久松定成 - 久松家先代、元愛媛大学教授、靖国神社崇敬奉賛会元会長、「ヒサマツサイカブトムシ」の発見者。故人。同上
- 今上天皇 - 第125代天皇、同上
- 常陸宮正仁親王 - 常陸宮家当主、財団法人日本鳥類保護連盟総裁、同上
- 久邇邦昭 - 久邇家当主、神社本庁統理、同上
- 島津修久 - 島津家当主、島津興業会長、鶴嶺神社宮司、照国神社宮司、平松神社宮司、鹿児島経済同友会代表幹事。同上
- 島津禎久 - 旧佐土原藩島津家出身、カメラマン。山階鳥類研究所理事長島津久永の長男、同上
- 徳川宜子 - 紀州徳川家当主、建築家、同上
- 徳川慶朝 - 徳川慶喜家当主、カメラマン、共に松平容保の曾孫
- 義従兄:徳川義宣 - 尾張徳川家21代、美術史家。義宣の妻三千子が恒孝と従姉、同上
ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる徳川家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恒雄は貴族院に代わって成立した参議院の最初の議長である。
逸話
- 祖父の家正から養子に望まれたとき、恒孝は父の一郎の前に現れて「なぜボクだけがよそへ行かなければいけないのですか」と訊いた。すると、一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えた。当時は戦中から戦後にかけての窮乏期だったため、恒孝を家正が説得した最後の決め手は「おいしいものを沢山食べさせてあげる」だったという[2]。しかし本人の講演会での談によれば、実際には養父である家正らは非常に粗食家であった為に思った様にご飯を食べさせてもらえなかった。幼少の恒孝は空腹に耐えかね実家の松平家にご飯を食べに帰り、その際に状況を察していた母豊子は恒孝の分も食事を用意していたそうである。
- 徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。正月でいうと10日が5代目、24日が2代目、30日が11代目の命日にあたるため、墓所である上野寛永寺や芝増上寺に参らなければならない。家康の命日の4月17日には、静岡久能山の東照宮へ束帯に威儀を正して出かけて行く。月遅れの5月17日に、今度は日光の東照宮で同様の祭があり、ここにも束帯で出向く。その他、歴代将軍の側室など徳川宗家ゆかりの人々の墓には年末年始や盆にまとめて参る。会社勤めの傍ら、こうして月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、その都度有給休暇を振り当て、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた[3]。
- 日本郵船に勤務していた際、恒孝と加賀前田家18代当主前田利祐(現宮内庁委嘱掌典)は、一時期、本社の同じ部署で勤務していたことがあり、その時の上司が「徳川と前田家の当主を使うのは太閤(豊臣秀吉)以来だろうな」と笑ったという逸話がある。
- 長男の家廣がベトナム人と結婚したときに猛反対した。
著書
- 『江戸の遺伝子 いまこそ見直されるべき日本人の知恵』PHP研究所、2007年 のち文庫
- 『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』養老孟司共著 PHP研究所 2010
- 『日本人の遺伝子』PHP研究所 2012