松平容保

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松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末大名陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主[1])。京都守護職高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

生涯

会津藩主就任

天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。安政7年(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。

京都守護職就任

文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。

京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された(詳細は後述)。容保はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。

慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、弟の桑名藩主・松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。

会津戦争

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎する。西郷隆盛勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。

容保は佐幕派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い若松城に篭城するが、その後、新政府軍の降伏勧告に応じ、抗戦を主張する佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。

晩年

その後は鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居するが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられた。

容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため死去。享年59。

死後

昭和3年(1928年明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。

官職および位階等の履歴

※日付は明治4年までは旧暦

家系

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高須四兄弟(明治11年9月撮影)
左から定敬、容保、茂徳、慶勝
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水師営の会見 後列左4人目が五男の英夫、中段左2人目が乃木希典

正室・婚約者(継室)・側室など

  • 正室は容敬の五女で従妹にあたる敏姫。天保14年(1843年)に会津若松城で生まれ、9歳で江戸に出府。安政3年(1856年)14歳で22歳の容保の正室となるが、文久元年(1861年)10月に19歳で死去した。先代・容敬の実子の中では唯一成長した人物であるため、早くから容保との縁組が予定されていたと考えられる。
  • 敏姫の死の翌年、文久2年(1862年)10月、容保は加賀藩主・前田慶寧の長女・禮姫と婚約し、11月に幕府の許可を得た。しかし、12月に京都守護職として上洛し、京に長期滞在したため婚儀は延期された。慶応2年(1866年)12月に容保が慶喜の弟の余九麿(喜徳)を養嗣子にし、翌慶応3年に余九麿元服を機に東下する内命が下りたことから、6月26日結納が贈られる。だが、容保は結局この時も京を離れられず、戊辰戦争の会津降伏、容保長男・容大の誕生などを経て、明治4年(1871年)に正式に婚約を解消した。禮姫は金沢に在住したので容保と会うことはなかった(明治6年に榊原政敬に嫁いでいる)。
  • 浦乃局(関山通子)は、柴桂子『会津藩の女たち』で会津松平家に奉公し、側室だった可能性を挙げられているが、公式記録には見当たらない。
  • 子供を産んだ側室は田代孫兵衛の娘の佐久と川村源兵衛の娘の名賀の2人。第一子の出産はともに会津降伏から間もない明治2年(1869年)で、名賀が3月、佐久が6月。明治以降、容保が死去するまで両人とも容保に仕えた。秩父宮妃節子『銀のボンボニェール』で節子の父・恒男が「(側室だったので)母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。

逸話

  • 細面の貴公子然とした風貌で、京都守護職の容保が宮中に参内すると女官たちがそわそわした、という逸話も残っている。
  • 京都見廻組京都守護職だった容保の支配下にあったので、近江屋事件について磯田道史は「(見廻組与頭)佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させた」と、手白木が記した書を元に指摘している[3]
  • 明治期になって、容保の実兄である旧尾張藩主・徳川慶勝から容保に尾張徳川家相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。旧臣・山川浩が容保にその理由を訊ねたところ「自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない」と答えたと言う[4]
  • 明治26年(1893年)、孝明天皇の妃であった九条夙子は、容保の病が重いことを聞き、容保の主治医であり宮中の侍医頭でもあった橋本綱常を通じて、当時滋養によい高級品とされていた牛乳を贈った。容保は牛乳の匂いを苦手としていたため、皇太后は香料を加えることを指示し、綱常はコーヒーを加えた牛乳を瓶に詰めて松平家に持参した。容保は侍女に支えられながら病床に起き上がり、感涙にむせびながらそれを飲んだという[5]
  • 会津松平家は容保の長男・容大が子爵となったものの、山川健次郎の奔走が実るまで財政は苦しかった。旧臣たちは収入から幾許かを献上し、旧主家を支え続けた。
  • 磐梯山が噴火した際、旧領の猪苗代裏磐梯地域は大きな被害を受けた。旧臣の西忠義から事態の連絡を受けた容保は現地に急行し、被災者を見舞っている。被災者は旧領主の訪問を喜んだ[6]

孝明天皇下賜の宸翰・御製

上述の通り、八月十八日の政変の際に孝明天皇より賜った宸翰(孝明天皇宸翰)には、京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、いかに孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。宸翰・御製の内容は以下の通り。

宸翰

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御製
たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる
  • 和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)の まつの落葉のあらす栄へむ
  • 武士と こゝろあはしていはほをも つらぬきてまし世々のおもひて

関連作品

小説

テレビドラマ

脚注

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参考文献

  • 相田泰三『松平容保公伝』会津郷土史料研究所
  • 渋沢栄一編『昔夢会筆記-徳川慶喜公回想談-』平凡社
  • 綱淵謙錠編『松平容保のすべて』新人物往来社
  • 日高実業協会『西忠義翁徳行録』(1933年)
  • 高木俊朗『戦死 インパール牽制作戦』文春文庫
  • 飯沼関弥『會津松平家譜』国書刊行会
  • 『加賀藩史料 編外備考』侯爵前田家編輯部
  • 『京都守護職始末』 ※国立国会図書館近代デジタルライブラリー、旧字体旧かなづかい。容保の死後、宸翰御製の存在が明らかになったので、旧藩士の山川浩(山川大蔵)らの手により、公表されたもの。


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テンプレート:会津藩主
  1. 容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。
  2. 日露戦争において乃木希典の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の貞夫は陸軍中尉としてインパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった(『戦死 インパール牽制作戦』)。
  3. テンプレート:Cite book
  4. 『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」より
  5. 『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」より
  6. 『西忠義翁徳行録』