英照皇太后

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 英照皇太后(えいしょうこうたいごう、天保5年12月13日1835年1月11日[1] - 明治30年(1897年1月11日)は、孝明天皇女御にして明治天皇の嫡母(※実母ではない)。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。

生涯

父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。名は初め「基君(のりきみ)」。

山城国愛宕郡下鴨村(現京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化2年(1845年9月14日、12歳の時に、3歳年上の東宮・統仁親王(のちの孝明天皇)の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848年12月7日従三位に叙され、同月15日に入内して女御宣下を被る。孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る。

嘉永3年(1850年)に第一皇女順子内親王(1850年 - 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮1858年 - 1859年)を生んだが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年7月10日勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮睦仁親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称した。

33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応4年(1868年3月18日皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后となった。東京奠都後、明治5年(1872年)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874年)に赤坂御用地に移る。

明治21年(1888年11月1日勲一等宝冠章

明治30年(1897年1月11日崩御享年64(満62歳没)。1月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。同年に大喪の記録として和装本『英照皇太后大喪記事』、『英照皇太后之御盛徳』、『英照皇太后陛下御大葬写真帖』が出されている。

御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明帝と同所である。

なお、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたものである。

人物

孝明天皇の影響からかを好み、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられている[2]。 明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだった[3]。 皇太后からの注文は時に本職の能楽師をすらたじろがせるほど「渋い」もので[4]、当時名人と併称された梅若実宝生九郎の2人にそれぞれ同じ曲を舞わせ、その芸の違いを楽しんだこともあった[5]

脚注

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関連項目

  • 天保4年11月13日1833年12月23日)誕生とする資料もあるが、これは誤り。東宮統仁親王との婚姻時、親王との年齢差「中四つ」(3歳違い)を忌み嫌う風習があったので、一年早い天保4年を公式の生年としたのが真相である(小学館日本大百科全書:ニッポニカ』「英照皇太后」の項目、河内八郎執筆)。
  • 古川久『明治能楽史序説』わんや書店、1969年、p.23
  • 池内信嘉『能楽盛衰記』(増補・復刻版)東京創元社、1992年(初版:1925〜1926年)、p.109
  • 池内信嘉『能楽盛衰記』(増補・復刻版)東京創元社、1992年(初版:1925〜1926年)、p.191
  • 古川久『明治能楽史序説』わんや書店、1969年、p.33