政事総裁職
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政事総裁職(せいじそうさいしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つである。
沿革
文久2年(1862年)、朝廷と薩摩藩は、越前国福井藩主松平慶永を大老職に、一橋慶喜の将軍後見職就任を求めるように幕府に圧力をかける。これに対して幕府は4月25日に慶喜・慶永ら旧一橋派諸侯の赦免を決定し、7月9日に慶永を政事総裁職とした。これは親藩から大老が出された先例が無かったことによるものとされている。
慶永は慶喜らとともに文久の幕政改革を行った。
翌文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛工作のために京都に滞在中、朝廷と幕府間の意見対立に苦悩した慶永は3月2日に辞表を提出するが、それが受け入れられないまま領国の越前に帰国してしまう。このため、3月25日に逼塞処分にされて総裁職を罷免された。
その後、10月11日になって後任として武蔵国川越藩主松平直克が任命され、参与会議と幕府の意見調整にあたるが、元治元年(1864年)6月22日に廃止された。