前田慶寧
前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。
来歴
天保元年(1830年)5月4日、藩主前田斉泰の長男として江戸に生まれる。母は正室の第11代将軍徳川家斉の娘・溶姫。幼名は犬千代。天保4年(1833年)、大奥にて初めて将軍家斉に謁する。天保9年(1838年)3月、初名を利住(としずみ)とする。天保12年(1841年)12月又左衛門と称する。天保13年(1842年)2月15日表向きに初めて登城・将軍家慶に謁し、同月22日江戸城にて元服し、正四位下左近守権少将に任じられて筑前守を称し、家慶の偏諱を賜って慶寧に改名した。嘉永5年(1852年)12月左近衛権中将に、安政5年(1858年)11月正四位上に昇る。
元治元年(1864年)5月、斉泰に代わり上洛した。御所の警備にあたっていたが、病がちになり、7月に起こった禁門の変では、長州藩と幕府の斡旋を試みたが失敗し、病を理由に退京し近江国海津(加賀藩領)に居たため、長州に内通した疑いを受けた。このため、斉泰により幕命に背き御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられた。このとき、側近の松平康正(大弐)や大野木仲三郎をはじめ、多くの側近たちが斉泰や本多政均らの手によって処罰されている。一説には、慶寧は尊皇攘夷派と親しかったため、それを苦々しく思った斉泰が弾圧したのだという。慶応元年(1865年)4月、謹慎が解かれる。
慶応2年(1866年)4月4日、斉泰から家督を譲られたが、実権は依然として斉泰が握っていた。同年5月10日に参議に任官する。戊辰戦争では新政府軍に味方している。その後、明治2年(1869年)6月に金沢藩知事となり、7月に従三位に叙される。明治4年(1871年)の廃藩置県により、8月に東京に移る。その後、結核と思われる肺疾患にかかり、明治7年(1874年)5月22日、療養先の熱海で父に先立って死去した。享年45(満43歳没)。明治26年(1893年)7月に従二位を贈られた。
系譜
- 正室:崇姫(霊鑑院、有馬頼徳女)(1832年 - 1856年)
- 継室:範姫(通子・顕光院、鷹司政通養女・久我建通女)(1846年 - 1864年)
- 側室:扶伝(筆・梃秀院、家臣・久徳政信女)
- 側室:利佐(家臣・鈴木清左衛門女、のち家臣神保成之に嫁す)
- 三女:灌姫(1862年 - 1873年)
- 側室:宇路(家臣・酒井忠良女、のち家臣増田知幾に嫁す)
- 六女:貞子(1871年 - 1955年) - 公爵近衛篤麿継室
将軍継嗣の話
後世、三田村鳶魚は赤門にまつわる逸話として次のような話を記しているが、史料の裏付けはない。祖母(溶姫の母で家斉の側室)のお美代の方は大奥の権勢を固めようと、慶寧の伯父である将軍家慶の世子家定が病弱であるため、自分の孫に当たる慶寧を継嗣にしようとした。そこで、お美代の方は家斉の遺言書を、家慶の嫡子家定を13代将軍とし、慶寧を家定の養子として14代将軍にするという内容に偽造した、というものである。