徳川家達
德川 家達(とくがわ いえさと)は、徳川宗家16代当主。もとは田安徳川家7代当主。静岡藩初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。
生涯
幼少期
江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生する。慶頼は14代将軍・徳川家茂の将軍後見職であり、幕府の要職にあった。母は高井武子。家達は家茂および13代将軍・徳川家定の従弟にあたる。
元治2年(1865年)2月5日、実兄・寿千代の夭逝により田安徳川家を相続する。慶応2年(1866年)に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任した。
家督相続
大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見した。5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。11月、東京城(皇居)において明治天皇に拝謁する。11月18日、従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。
1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。
8月9日に江戸から出発した当時は6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。 テンプレート:Quotation また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって免職となり、東京へ移住、千駄ヶ谷に住むことになった。
明治維新後
明治10年(1877年)、イギリスのイートン・カレッジに留学する。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。明治15年(1882年)10月に帰国する。
明治23年(1890年)から貴族院議員を務め、明治36年(1903年)から昭和8年(1933年)まで貴族院議長を務めた。大正3年(1914年)、シーメンス事件で第1次山本内閣が総辞職した際には組閣の大命が下ったものの、一族会議でことごとく反対されたためこれを受けるには至らなかった。このことに関して当時の朝日新聞は「高貴でおおらかな家達氏は、政治の濁流にもまれるべきではない」と賛意を表明した。
家達は海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議首席全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。
大正2年(1913年)に恩賜財団済生会会長、大正4年(1915年)に明治神宮奉賛会会長に就任。大正10年(1921年)には大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の名誉会長として、その発足に立ち会っている[1]。
昭和時代
昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任した。昭和9年(1934年)には、日本におけるアジア初の国際会議となった第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催に尽力した。さらに昭和11年(1936年)12月には、1940年の東京オリンピック招致成功を受けて、東京市や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。
昭和15年(1940年)死去、享年78。大勲位菊花大綬章受章。
人物
- 家達の近習を務めた洋画家・川村清雄によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、浅間神社の神主宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという[2]。
- 趣味の囲碁はアマチュア・トップクラスで、大正15年(1926年)に喜多文子五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。
- 相撲好きで国技館の常連として有名であった。野村胡堂が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた[3]。大正11年、英国皇太子来日の時、自宅に招き、両国国技館から四本柱を運ばせ、横綱の大錦や栃木山ら十数名の力士を招いて、相撲を披露した。[4]
- 同性愛の趣味があり、華族会館の給仕を鶏姦し[5]、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年(1917年)頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程である)を支払ったことがある。このため、家達の実弟の徳川頼倫は牧野伸顕に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。倉富勇三郎が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛嗜好は華族間では知る者も多く、伯爵・松浦厚はこれに基づき家達の学習院総裁就任の話を潰したことがある[6]。
- 貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった柳田國男と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院を辞した。両者の不仲の理由について、潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと岡谷公二は推測している[7]。一方、永井和は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している[6]。
- 初代東京市長最有力候補と目されたが固辞したことがある。
- 来孫にあたる徳川家広は家達と徳川家茂が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている[8]。
子女
偏諱を与えられた人物
テレビドラマ
脚註
関連項目
- 徳川事件
- 小諸城#懐古園 - 園の入口(旧小諸城三之門)の扁額を揮毫したのが家達。
- 川村清雄 - 御学友の一人。留学先でもしばしば交流しており、清雄宛の手紙が46通残り(江戸東京博物館蔵)、家達の肖像画も描いている(徳川記念財団蔵)。また、清雄をパトロンとして支え続け、聖徳記念絵画館の壁画制作の際には、真っ先に清雄を指名している。
テンプレート:田安徳川家
テンプレート:徳川氏歴代当主
テンプレート:駿府藩主
- ↑ 今村次吉 日本サッカー人物史参照
- ↑ 川村清雄談「慶喜公と亀之助様」『漫談 江戸は過ぎる』(萬里閣書房、1929年、所収)。後に『史話 江戸は過ぎる』(新人物往来社、1969年)の名で復刊。清雄の談話部分は『静岡の美術Ⅶ 川村清雄展』図録(静岡県立美術館、1994年)にも収録151-152頁。
- ↑ 『胡堂百話』 40.平次の旅
- ↑ 『殿さまは明治をどう生きたか』、2014年、河合敦 洋泉社 ISBN 978-4-8003-0379-0
- ↑ 佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)
- ↑ 6.0 6.1 永井和「柳田國男、官界を去る」『立命館文学』第578号、2003年。
- ↑ 岡谷公二『貴族院書記官長柳田國男』
- ↑ セオリー「名家・名門の秘密」徳川家広インタビューより