シーメンス事件
シーメンス事件(シーメンスじけん)は、ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件である。ヴィッカースへの巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。1914年(大正3年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。
事件の背景
海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。
明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。
山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世はイギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた[1]。
事件の概要
シーメンス横浜支配人の吉田収吉の姪が海軍艦政本部部員の鈴木周二造船中監の妻であったことから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、イギリスのヴィッカースやアームストロングより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、平沼騏一郎によれば歴代の宮内大臣でこの謝礼を私有せず国庫に納めたのは波多野敬直だけだったという。また日本海軍でもロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた[1]。
この事件は、この謝礼を示す秘密書類をシーメンス社員のカール・リヒテルが会社から盗み出し、買い取るよう1913年10月17日[1]に東京支店長宛脅迫文書を送った[1]ところに始まる。要求金額は2500ポンド[2]とも25000円[1]ともいうがこの脅迫は拒否され失敗、カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員アンドルー・プーレーに売ってドイツへ帰国した。シーメンス重役陣は同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされた当時海軍大臣の斉藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却[1]、一度事件は終結を見た。
ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、恐喝未遂罪で起訴した[2]。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された[2]。公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。
1914年(大正3年)1月21日、ベルリン発のロイター外電[2]が、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校(艦政本部第四部長藤井光五郎海軍機関少将と艦政本部部員沢崎寛猛海軍大佐)に会社側が賄賂を贈ったとの記載があると伝えたことから、1月23日、第31議会衆議院予算委員会で立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及した[1]。山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことからこれに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、片桐酉次郎ら海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した。
1月末から2月初めにかけて関係者の喚問や家宅捜索が開始された。アンドルー・プーレーは1月30日に家宅捜索を受け、プーレーがリヒテルから秘密書類を購入したことが発覚、拘置された。この代金は750円[1]とも25万円[2]ともいう。プーレー夫人のアンは帰宅を許されたが1月31日の取り調べの後剃刀で自殺未遂をしている。2月7日藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付された。2月10日野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。
司直の取調べが進むとこの汚職事件はいっそう広がり、3月12日イギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産の重役岩原謙三が、1910年(明治43年)に巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため海軍高官に贈賄した容疑で拘禁され、ついで飯田義一・山本条太郎ら三井物産の関係者が起訴された。その結果、当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官松本和中将が「金剛」の建造に際し、三井物産の手を経てヴィッカースから約40万円の賄賂を受けていたことが判明した。この間、貴族院は海軍予算7000万円を削減することを可決し、予算案は両院協議会の不調となり不成立となり、3月24日山本内閣は総辞職した。
後継の第2次大隈内閣は海軍粛正の声に押されて八代六郎新海相の元で大改革を断行、5月11日には山本前首相及び斎藤実前海軍相を予備役に編入した。5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。
しかし、折から第一次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。「産業界と軍部との癒着構造の根源にまで追及すべきだった」という見方と「全く無実であった山本権兵衛と斉藤実を引責辞任、予備役編入したことは有力なリーダーなくして第一次世界大戦に突入することになり、また海軍衰退の元を作り第二次世界大戦を陸軍主導で開戦する遠因になった」という見方がある。
三井高弘(三井八郎次郎)は事件後に三井物産社長職を引責辞任した。
小野稔によると、アンドルー・プーレーはシーメンスの贈賄を手伝っており、グラシュテの懐中時計を賄賂として日本の海軍将校に渡していた。シーメンス側はさらにアンの姉ジャンヌの夫でシーメンスの重要なポストにいたヒムラーからピエール・ル・ロワの懐中時計も準備し賄賂として渡すつもりであったという。この時計は1888年に製作され1889年のパリ万国博覧会に展示されたもので、事件後はアンの父親であるアンリ・デュプレが所持しており1941年11月小野稔に100円で売却した[3]。また小野稔のアンに対する取材により、グラシュテは連番で3個を同時に購入され1つは日本海軍将校への贈賄に使用され、1つは第二次世界大戦に際してヨーゼフ・ゲッベルスの指示でオランダのナチ協力者に渡されたことが判明している[2]。もう一つはそのままアンが持っていて小野稔に贈与された[2]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』p.84-86『シーメンス事件』
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『骨董金側懐中時計』p.25-40。『続シーメンス事件秘話』
- ↑ 『骨董金側懐中時計』p.15-24。『シーメンス事件秘話』
参考文献
- 紀 脩一郎 『史話・軍艦余録 : 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』 光人社、1979年。
- 奈倉文二・横井勝彦・小野塚知二 『日英兵器産業とジーメンス事件 : 武器移転の国際経済史』 日本経済評論社、2003年、ISBN 4818815047。
- 木村久邇典 『帝国軍人の反戦 : 水野広徳と桜井忠温』 朝日文庫、1993年、ISBN 4022607823。
- 補章「汚職告発者太田大佐の悲劇」(初出:『歴史と人物』1976年9月号、中央公論社)、243-260頁。
- 小野稔『骨董金側懐中時計』新潮社 ISBN4-10-373901-0
- 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』学習研究社 ISBN4-05-602016-7
関連項目
外部リンク
- 関係者写真『歴史写真. 大正3年第3月號』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)