寺島宗則
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木弘安(こうあん)(弘菴とする文献もある[1]。)。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。
来歴・人物
1832年(天保3年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本字槝之浦)の郷士長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。跡継ぎがいなかった伯父松木宗保の養嗣子となる。1845年(弘化2年)江戸に赴き伊東玄朴・川本幸民より蘭学を学び、1855年(安政2年)[2]中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する傍ら[3][4][5]、1856年(安政3年)蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。
- 1862年、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わり、翌年帰朝して鹿児島に戻る。
- 1863年、薩英戦争においては五代友厚とともに捕虜となる[6]。
- 1865年、薩摩藩遣英使節団に参加し、2度目の渡欧。
- 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。
- 1868年神奈川県知事となる[7]。
- 1869年参与、従四位下。外務大輔。
- 1870年スペインとの和親貿易条約締結において全権委任される。
- 1871年ハワイ国との条約締結につき全権委任される。
- 1873年、参議兼外務卿。
- 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、1876年から諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、外務卿を辞職(文部卿となる)。その後、外交官を辞職し、元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務める。
- 1884年、伯爵。
- 1885年、東京学士会院会員。
- 1893年、62歳で死去。
憲法上の帝国議会の位置づけ
1889年(明治22年)の枢密院での憲法制定の御前会議において、当時枢密顧問官であった寺島宗則は、伊藤博文議長の提出した憲法草案には、帝国議会に発議権を付与する項目がないことを問題としこれを付与すべきと主張した。そして議論の結果、ついに憲法上に帝国議会の発議権を明記させることに成功した[8]。
著作
- 寺島宗則「寺島宗則自叙伝」(『伝記』第3巻第4号、伝記学会、1936年4月/第3巻第5号、1936年5月/第3巻第6号、1936年6月)
- 伝記学会編『復刻 伝記 第5巻』広文庫、1975年/『復刻 伝記 第6巻』広文庫、1975年
- 寺島宗則、一戸隆次郎著『寺島宗則自叙伝 榎本武揚子』ゆまに書房〈日本外交史人物叢書〉、2002年12月、ISBN 4843306770
脚注
関連文献
- 寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集』示人社、1987年2月
- 高橋善七著『寺島宗則 : 日本電気通信の父』国書刊行会、1989年12月
- 犬塚孝明著『寺島宗則』吉川弘文館〈人物叢書〉、1990年10月、ISBN 4642051937
- 犬塚孝明「寺島宗則の外交思想 : 自主外交の論理とその展開」(日本歴史学会編『日本歴史』第515号、1991年4月)
- 山崎渾子「岩倉使節団と寺島宗則 : キリシタン問題をめぐって」(田中彰編『近代日本の内と外』吉川弘文館、1999年11月、ISBN 4642036903)
- 長谷川洋史「寺島宗則(松木弘安)の「コムパニー」概念について : 解放思想としての会社制度」(『日本経済思想史研究』第4号、日本経済思想史研究会、2004年3月)
- 田村省三「松木弘安(寺島宗則) : ナショナリストの先駆者」(W.ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌真人共編『九州の蘭学 : 越境と交流』思文閣出版、2009年7月、ISBN 4784214100)
関連項目
外部リンク
- 憲政資料室 寺島宗則関係文書(国立国会図書館)
- 枢密院文書 枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一 寺島宗則(国立公文書館)
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(創設)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院副議長
初代:1888 - 1891
|style="width:30%"|次代:
副島種臣
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
西郷従道
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部卿
第4代:1879 - 1880
|style="width:30%"|次代:
河野敏鎌
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
副島種臣
(外務事務総裁)
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務卿
第4代:1873 - 1879
|style="width:30%"|次代:
井上馨
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大木喬任
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 元老院議長
第3代:1881 - 1882
|style="width:30%"|次代:
佐野常民
- 転送 Template:End
テンプレート:神奈川県知事 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:外務大臣 テンプレート:在イギリス日本大使
テンプレート:在アメリカ日本大使- ↑ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、107頁
- ↑ 中津藩士藩儒者岡見彦三 1855(安政2)ごろ、松木弘安(寺島宗則)や杉亨二らを中津藩邸に招き、蘭学塾の開設に尽力し
- ↑ 「諭吉の流儀『福翁自伝』を読む 平山洋 ISBN 4569709419 71P参照」 松木弘安は中津藩江戸藩邸内で蘭学を学ぶ傍ら、翌年蕃書調所が出来たためそちらに出講することになったが、その後も箕作秋坪らと共に互いに往来していた。福沢と松木と箕作の関係が始まるのは文久遣欧使節をきっかけとしてであるが、薩英戦争後に薩摩出身の蘭学者・肥後七左衛門の手配によって松木が新銭座の慶應義塾に無事を知らせるために滞在し、やはりその後も親密な関係が続いており、榎本武揚助命のために福沢と黒田清隆と引き合わせたのも松木だった。『福沢諭吉国を支えて国を頼らず』 北康利 ISBN 9784062765718 第114項-第115項目参照、『慶應義塾五十年史』近代デジタルライブラリー第一「総論」~第三章「起源及び沿革」参照
- ↑ この蘭学塾は、1858年(安政5年)以降福沢諭吉が教授担当することになり、慶應義塾の源流となる。『慶應義塾百年史上巻』第一章「草創期の慶應義塾」。また、『福翁自伝』(『福沢諭吉著作集 第12巻』慶應義塾大学出版会、2003年、 115~116頁)にはつぎのようにある。「私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の奥平の邸から御用があるから来いと云て、私を呼に来た。それは江戸の邸に岡見彦曹と云う蘭学好の人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何かして江戸藩邸に蘭学の塾を開きたいと云うので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。所で奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木弘庵[安]、杉享一と云うような学者を雇うて居たような訳けで」(ゴチックによる強調は引用者による)。
- ↑ 薩摩の松木などは、中津藩小田原町の自宅に住まわせ、そこに出講させた。中津での勤めをせず、適塾で勉強していた福沢が、江戸藩邸に呼ばれたのは、福沢にとって喜ばしいことだったが、それを『自伝』には書いていない。安政の大獄が起ころうかという時期だ。中津の国元でも、攘夷論が強く、それは怖い。岡見は「目立たないように教えてくれ」と言い、福沢や松木が慶應義塾に出入りしていることを世間におおっぴらにはしない教え方を求めたのだ。 河北展生(慶應義塾大学名誉教授)「幕末十年間の学塾経営の苦心談 (講演録 〔慶應義塾〕創立一五〇年を前に)」『三田評論』32-42(2006年12月)参照。
- ↑ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、107頁
- ↑ 同上
- ↑ 板垣退助 監修『自由党史(下)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、378~379頁