黒田清輝
テンプレート:政治家 黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。通称は新太郎(しんたろう)。名の清輝は、本名では「きよてる」と読むが、画名では「せいき」と読む。
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。
来歴
生い立ち
鹿児島県鹿児島市出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、のちに伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。1872年(明治5年)に上京。小学校卒業後は漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に通う。1878年、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。上級学校進学を意識し、当時の受験予備校であった共立学校、すぐに築地英学校に転校、その後は東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。
美術家として
1893年に帰朝すると、美術教育者として活躍する。1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させ、1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1898年、東京美術学校教授に就任。1910年10月18日[1]には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選し、1920年に貴族院議員に就任している。
顕彰
黒田の遺言には、遺産を美術の奨励に役立てるようにと記されていた[2]。この遺志に基づき黒田記念館が建設され、館内には遺作を展示する黒田記念室が設けられるとともに、帝国美術院附属美術研究所が同館に設置された[2]。その後、帝国美術院附属美術研究所は、東京文化財研究所に改組された[2]。2007年より、国立文化財機構が運営する東京国立博物館によって管理されている[2][3]。
出自
黒田家は本姓佐々木源氏で、福岡藩藩主家黒田家の遠縁にあたるが、清輝の先祖で薩摩藩史上で名が知られるのは黒田嘉右衛門が記録奉行や蒲生郷地頭(現在の鹿児島県姶良市)に就任したあたりからで、その弟で養子の黒田才之丞は近思録崩れの最中に山本伝蔵の後任として教授になり、兄の死後に帖佐郷地頭に任じられる。その子新之亟(嘉右衛門とも)は記録奉行を勤め、新之亟の次男が清輝の父である。
栄典
- 1923年 - コマンドゥールレジオンドヌール勲章。
- 1924年 - 従三位。
- 1924年 - 勲二等旭日重光章。
作品
- アトリエ(1890年、鹿児島市立美術館)
- 読書(1892年、東京国立博物館)
- 舞妓(1893年、東京国立博物館、重要文化財)
- 朝妝(ちょうしょう)(1895年、焼失)
- 湖畔(1897年、黒田記念館、重要文化財) - モデルは友人の画家安藤仲太郎が紹介した芸者で、当時23歳の金子種子。のちに清輝の妻となり照子と改名した。縦69cm×横84.7cm。描かれた地点は、箱根芦ノ湖の観光船の乗り場や箱根駅伝スタート地点のすぐ近くである。
- 夕陽(1898年、豊橋市美術博物館)
- 智・感・情(1899年、黒田記念館、重要文化財)
- 花野(1907年 - 1915年、黒田記念館)
- 桜島爆発図(1914年、鹿児島市立美術館) - 桜島の爆発を描いた。
- 梅林(1924年、黒田記念館) - 絶筆。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-off |-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
森林太郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 帝国美術院院長
第2代:1922年 - 1924年
|style="width:30%"|次代:
福原鐐二郎
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