鍋島直大
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鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。
佐賀藩10代藩主・鍋島斉正(直正)の次男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。
来歴・人物
文久元年(1861年)、父の隠居により佐賀藩第11代藩主を襲封した。戊辰戦争では佐賀藩兵を率いて指揮を執り、各地を転戦した。とくに関東に移ってからは下総野鎮撫府に任命され、下総の防衛に当たった。
その後、明治政府に出仕し、明治4年(1871年)には2人の弟直虎・直柔とともにイギリスに留学した。明治11年に帰国し、翌年外務省御用掛となり明治13年(1880年)、駐イタリア王国特命全権公使となる。明治15年(1882年)帰国し、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった。
明治44年(1911年)、皇典講究所第4代所長に就任した。大正10年(1921年)没、享年76。
なお、次女・伊都子は梨本宮守正王に嫁ぎ、四女・信子の娘で孫の勢津子は秩父宮雍仁親王に嫁ぐなど、皇室との縁も深い。継室の広橋榮子とその間に出来た次女伊都子は、明治・大正期の美人写真でも有名であり、その梨本宮との間に生まれた直大の孫方子は朝鮮李朝王世子李垠の妃李方子(イ・バンジャ)となった。
略歴
- 1861年 (文久元年) -従四位下侍従兼信濃守に叙任 (肥前守に改まる)[1]。
- 1868年 (明治元年) - 外国事務局権輔[1]。横浜裁判所副総裁を兼任[1]。外国官副知事[1]。
- 1869年 (明治2年) - スペインとの和親貿易条約締結の全権委任、正四位下右近衛権少将[1]。
- 1871年 (明治4年) - 佐賀県知事。知事職を辞し英国留学[1]。
- 1873年 (明治6年) - 帰国するも、英国へ5年間再留学[1]。
- 1879年 (明治12年) - 来日するドイツ皇族・イタリア王族および米前大統領の接伴掛。従三位。外務省御用掛[1]。
- 1880年 (明治13年) - イタリア王国特命全権公使に赴任。
- 1882年 (明治15年) - 帰国。(7月?)元老院議官・式部頭を兼任[1][2][注釈 1]。
- 1884年 (明治17年) - (7月7日) 三位侯爵に叙せられる[3]。(10月) 式部長官[4]。
- 1886年 (明治19年) - 元老院議官を辞[1]。
- 1890年 (明治23年) - 貴族院議員。勲二等旭日重光章[1]。
- 1892年 (明治25年) - 正二位勲一等。[1]。
注釈
出典
関連項目
テンプレート:在イタリア日本大使 テンプレート:佐賀藩主 テンプレート:皇典講究所総裁
テンプレート:学校法人國學院大學- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 テンプレート:Cite book
- ↑ 7月の官員名簿だと「式部寮」(217頁)の頭は空白だが、「元老院」以下に「議官兼式部頭 従三位 鍋島直大」とある(テンプレート:Cite book (テンプレート:近代デジタルライブラリー)。そしてテンプレート:Cite book (テンプレート:近代デジタルライブラリー)で「式部寮」の部に頭として明記
- ↑ 爵位#明治17年7月7日の叙勲を参照。
- ↑ 式部寮を式部職に再組織の際、職名を「長官」と改名。テンプレート:Cite book
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