神保氏
テンプレート:出典の明記 テンプレート:日本の氏族 神保氏(じんぼうし)は本姓惟宗氏で、上野国多胡郡辛科郷神保邑が名字発祥の地という。家紋は「竪二引両」。越中神保氏が有名。
概要
神保氏は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、能登、紀伊などの守護代を務め、越中国射水郡放生津に本拠を構えた。応仁の乱では東軍畠山政長の腹心として長誠が活躍、明応の政変で幽閉された将軍・足利義稙を救出し、放生津館に迎えるなど最盛期を迎えたが、長誠の後継者慶宗は主家畠山氏からの独立を目指し、一向一揆と手を結んで長尾能景を討つなどの行動をとったために主君畠山尚順(尚長)の怒りを買い、長尾・畠山連合軍による討伐を受け、永正17年(1520年)新庄の戦いで能景の子・長尾為景の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった。
しかし天文期になり、慶宗の遺児とみられる長職が新川郡に富山城を築いて神保氏を再興し、新川郡守護代の椎名氏との抗争を経て越中一国を席巻する勢いとなったが、椎名氏の援軍要請を受けた上杉謙信(長尾為景の実子)に敗北し、上杉氏に従属する。しかしやがて武田・一向宗派と上杉派に家中が分裂し、内紛状態となって衰退し、家中の実権は親上杉派の家老小島職鎮に握られた。長職の嫡子長住は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った。
やがて上杉謙信が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は富山城に入城して神保氏の実権を取り戻した。しかし天正10年(1582年)3月、小島職鎮らが武田勝頼の流した虚報(武田領内に押し寄せた織田・徳川両軍を勝頼が悉く討ち果たしたとのもの)をうけて一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保氏は滅びた。(信長公記)
庶流の氏張の家系は佐々成政、徳川家康に仕えて旗本となった。会津藩臣神保氏も越中神保氏の出自と伝わり、一方長誠から分かれた紀伊神保氏も、豊臣氏、徳川氏に仕えて旗本として生き残っている。
日本最大の書店街として知られる東京の神保町の地名は、旗本で神保氏張の子孫である神保丹後守の屋敷に面した「神保小路」の旧跡にあたることに由来する。
一族
越中神保氏
<国久系>
- 神保慶久 - 国久の子とされる。一時期河内畠山氏の当主であった畠山満慶(満家の弟)より偏諱を賜ったとみられる。
- 神保国宗 - 慶久の子(または慶久を間に入れずに国久の子とも)。畠山持国より偏諱を賜う。持国の後継者を巡る争いでは、甥の畠山弥三郎(政久)を推したが、1454年に謀殺された。
- 神保長誠 - 国宗の子とされる。畠山弥三郎(政久)の弟・畠山政長に仕えて偏諱を賜い、その腹心として活躍。
- 神保慶宗 - 長誠の子。畠山尚慶(のち尚順、尚長)より偏諱を賜うが、のちに尚長から独立の姿勢を見せて反乱し敗死。
- 神保慶明 - 慶宗の弟とされる。
- 神保長職 - 慶宗の子とされる。畠山尚長より偏諱を賜ったとみられる。
- 神保長住 - 長職の長男。
- 神保長城 - 長職の次男。
- 神保長国 - 長職の三男とされるが詳細は不明。
<国氏系>(守山神保家)
<その他一門>
(*ともに神保長職とほぼ同時期の人物だが、詳しい系譜は不明。「広」の字が共通していることから両者は父子関係にあるとみられる。)
紀伊神保氏
(神保慶宗の弟とされる神保長茂の系統)
会津藩神保氏
神保家臣団
小島職鎮 小島国綱 寺島職定 寺島盛徳 二宮長恒 塩井職清 鞍川清房
推定系図
┣━━━━━━━━━━━━━┓ 国久 国氏 ¦ ¦ ¦ ¦ 長誠 ¦ ┣━━━━━━━┓ ¦ 慶宗 長茂 氏重 ┃ ¦ │ 長職 ¦ 氏張 ┣━━━┓ ¦ ┃ 長住 長城 春茂 氏長 ┃ 相茂 氏信