畠山満家
畠山 満家(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。
生涯
応永6年(1399年)の応永の乱では父と共に幕府軍の一翼を成し、敵将・大内義弘を討ち取る武功を挙げている。しかし、大御所足利義満から疎まれ一時失脚する。家督は父の没後は弟の満慶が継承していたが、義満が死去し4代将軍足利義持の治世になると、満慶から家督を返上され満家が当主となり河内・紀伊・越中3ヶ国の守護となった(「天下の美挙」と称えられた)。義持政権では重きをなし、応永17年(1410年)6月から応永19年(1412年)3月、応永28年(1421年)8月から永享元年(1429年)8月までの間に管領を務めた。応永31年(1424年)に伊勢守護に補任、正長元年(1428年)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替、同年に山城守護に補任された。
義持が引退した後は5代将軍足利義量を補佐したが、義量が早世したため前将軍義持が復帰することになり、再び義持の下で政務にあたった。正長元年、義持が死去した時、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家である。結果、天台座主義円が還俗し、6代将軍足利義教となった。義教の代においても宿老として幕政に重きを成したが、永享5年(1433年)9月19日、62歳で死去した。法号は真観寺殿真源道端。
粛清を行なった将軍として恐れられた義教も、満家存命中はその行動を抑制されていた。満家は義教と鎌倉公方足利持氏の融和に努めることで戦争を回避しようと努力していたが、満家が死去したことで義教を抑制する人物がいなくなってしまったため、以後は義教による粛清が行なわれることとなるのである。
偏諱を与えた人物
参考文献
関連項目
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