堀越公方
堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。
経過
長禄元年(1457年)、室町幕府8代将軍足利義政が対立を深める古河公方足利成氏への対抗策として、天龍寺で僧籍にいた異母兄の足利政知を還俗させ、翌2年(1458年)に京都から関東へ正式な鎌倉公方として送った。しかし鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まる事になり、そこに堀越御所を建設した(初め国清寺を陣所としたが、長禄4年(1460年)に焼き討ちされて別の場所に移った)。一方の成氏は鎌倉を追われたものの下総古河城に拠り北関東を中心に健在であり、鎌倉公方が両雄並び立つ状況であった。このため、政知は古河の鎌倉公方成氏に対する堀越の鎌倉公方として堀越公方と称されたのが始まりである[1]。
堀越公方には関東管領である山内上杉家や扇谷上杉家、京都より派遣された関東探題渋川義鏡と上杉教朝・政憲父子などが付き従い、関東の幕府方諸将への軍事命令権は政知にはなく幕府が直接命令を下し、実権は全て京都の幕府に握られていたこともあって非常に脆弱な構造であった。また、関東方の諸将は初代鎌倉公方足利基氏以来の血筋である成氏への忠誠心が厚く、関東の勢力からの支持・協力も得ることができなかった。更に渋川義鏡は山内上杉家に対抗するために自らを関東執事(関東管領の旧称)と号したために内紛を引き起こしてしまった上、兵粮料所を闕所地や伊豆・相模の在地領主の所領を充てたために相模を支配していた扇谷上杉家とも対立し、寛正3年(1462年、翌4年(1463年)とも)に扇谷上杉家との対立の結果失脚している[2]。そして、伊豆に整備した堀越公方居館の周辺への東国武家の集住(在倉制に代わる「在伊豆制度」と呼ぶべき制度)を確立できなかったことも堀越公方の東国統治権力としての成立を妨げることになった[3]。
幕府は関東に援軍を送ろうとしたが、中心の斯波氏が内紛を引き起こし(長禄合戦・武衛騒動[4])、奥羽の諸大名も出陣しようとしなかった為上手くいかず、応仁元年(1467年)に応仁の乱が発生、幕府の援助は期待できなくなった。山内上杉家も重臣の長尾景春の反乱で窮地に立たされ(長尾景春の乱)、扇谷上杉家も巻き込まれ成氏征討は難しくなり、文明14年(1482年)に和睦、成氏は幕府から赦免された。条件の1つに成氏は伊豆を政知に譲るとあり、政知は関東の主どころか伊豆1国の領主に過ぎなくなってしまった。
その後、政知は幕府の抗争を利用し、甥の10代将軍足利義材を廃して自分の末子・義澄を次の将軍職に就ける計画を企てるが、明応元年(1491年)に病没。後継には次男の潤童子が選ばれていたが、牢に閉じ込められていた異母兄の茶々丸により母もろとも殺害され、2代目堀越公方には茶々丸が就任する。
明応4年(1495年)、堀越公方の居城であった堀越御所が今川氏の外戚で今川の軍勢を率いた伊勢盛時(後の北条早雲)に攻められ、茶々丸は追放される。一説には明応の政変によって義澄が11代将軍に就任した事で、茶々丸が「将軍の生母」殺害犯として追討されたからであると言われている(上杉定正の手引きがあったとも)。ここに堀越公方は僅か38年で滅びたのである。その後、茶々丸は山内上杉家や武田氏を頼って伊豆奪回を狙うも、明応7年(1498年)8月に甲斐で盛時に捕捉されて自害した。堀越公方の滅亡時期には様々な説があるが、少なくとも15世紀後半には伊豆が後北条氏の前身である伊勢氏に奪われたことは確かであり、ここに堀越公方は滅亡、鎌倉公方の系譜を引くのは古河公方のみとなった[5]。
僅か2代(実質上1代)で滅んだ堀越公方ではあるが、その血統は京都の将軍家に受け継がれた。義澄から15代足利義昭までの室町将軍は全て堀越公方の血筋である。また、平島公方家を介して、現在も血筋は続いている。
経済基盤
政知は京都から地縁のない関東に下向したため、鎌倉府の直轄領を継承した古河府(古河公方)と異なり、自らの経済基盤を新たに確立する必要があった。政知はこの課題を解決したため、初期の堀越公方府を支えた渋川義鏡が寛正4年に失脚した後も、独自で約30年間存続し得たとされる[3]。
経済基盤の研究に関しては、政知が居館を設けた円成寺(伊豆北条/韮山町)が重要であると考えられている。元は鎌倉北条氏の館だったが、鎌倉幕府滅亡時に山内禅尼が譲り受けて尼寺としていた。その後も山内上杉家に保護され、近隣の土地(原木・山木・肥田・中条・南中村)を領有。平地の少ない伊豆の中では貴重な穀倉地帯だった上、下田街道と狩野川に面し、水陸交通の要衝に立地していた。従って円成寺は、伊豆北部の有力な地域権力だったとも考えられている。鎌倉府管轄国内では数少ない、京都・室町幕府と関係が深い寺院だったことも、政知を支えた背景として指摘される[3]。
京都から従って来た近臣は、伊豆国内の京都寺院領や鎌倉五山領を押領し、自らの所領とした。奉行人布施為基は、京都・真如寺正脉院領の安久郷および鎌倉・浄智寺領の加納郷を押領した(『蔭凉軒目録』)。朝日教貞も京都・醍醐寺地蔵院領の宇加賀郷・下田郷を押領している。押領行為により、堀越公方府自身の経済基盤は強化されるが、関東の在地秩序を混乱させ、堀越公方への支持が限定される原因となった[3]。
歴代堀越公方
脚注
- ↑ 神奈川県、P921 - P928、静岡県、P462 - P466、石田、P144 - P145。
- ↑ 神奈川県、P935 - P946、静岡県、P466 - P475、石田、P165 - P174、木下、P324 - P325。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 杉山、P124 - P155。(堀越公方の存立基盤)
- ↑ 特に武衛騒動の背景には渋川義鏡が実子である斯波義廉を斯波氏の当主にして同氏が遠江に持つ軍事力で堀越公方を支えようとしたという側面もある(杉山、堀越公方の存立基盤)。
- ↑ 神奈川県、P946 - P949、P963 - P964、静岡県、P478 - P481、石田、P274、P285 - P287。
参考文献
- 神奈川県『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』神奈川県、1981年。
- 静岡県『静岡県史 通史編2 中世』静岡県、1997年。
- 石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。
- 木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館。
- 杉山一弥「堀越公方の存立基盤」『室町幕府の東国政策』思文閣出版、2014年(原論文は『國學院大學紀要』46号(2008年))。