延暦寺

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延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の最澄767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成6年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。

概要

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。[1] 日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。

延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。

延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁円珍融通念仏宗の開祖良忍浄土宗の開祖法然浄土真宗の開祖親鸞臨済宗の開祖栄西曹洞宗の開祖道元日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコ世界遺産古都京都の文化財として登録されている。

また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。


歴史

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京都市内から見た比叡山

前史

比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。

最澄

最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた[2]。20歳の延暦4年(786年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。

延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師よりを学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた[2]。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。

大乗戒壇の設立

延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。

最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。

だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた[3]。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた[3]

大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる[3]823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった[2]。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった[2]。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった[4]

名僧を輩出

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらもに留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった[4]

なお、比叡山のはのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。

平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。

武装化

延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。

また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された[5]

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。

延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が延暦寺と対立した鎌倉幕府創設の功臣佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(『吾妻鏡』ほか)。

武家との確執

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。

永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年(1450年5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。

なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。

この時の戦いの様子は比叡山焼き討ちも参照。

信長の死後、豊臣秀吉徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。

現代

1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟が全焼した。

1987年(昭和62年)8月3日8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。

1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコ世界遺産に登録されている。

延暦寺近辺への土砂の大量不法投棄

延暦寺が運営する霊園に隣接した残土処分場に、2004年以降に京都市内の建設会社西日本開発が建設残土を大量に搬入するようになり、総量は大津市土砂条例で定められた9,900平方メートルをはるかに越えるようになった。大津市は2012年10月に当該の業者に中止命令を出すと共に、条例違反でこの業者を滋賀県警告発したが、直後に処分地の所有者が変更され、不法投棄は継続された。土砂の崩落も相次ぐようになって負傷者も出るようになり、参拝者が危険に曝されるリスクが高まったことなどから、延暦寺と地域住民らが、滋賀県公害審査会公害紛争処理法に基づく公害調停を申し立てることになった[6]。この不法投棄問題で滋賀県警は、法人としての西日本開発とその男性社長を大津市土砂条例違反容疑で書類送検した[7]2014年7月7日に、大津市が行政代執行などで土砂崩落防止工事を実施することや、周辺の河川水路の水質検査を2017年度まで実施することなどで調停が成立した[8]

組織暴力団との関係

2006年4月21日、延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を実施した。この件については事前に滋賀県警察から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において法要式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。

同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人全日本仏教会は、約30年前の1976年、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。

後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べた。その後、同寺は5月18日に大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。

その後同寺は、歴代組長の家族ら少人数での位牌参拝を認めていたが、各自治体暴力団排除条例が相次いで制定されるなど、暴力団排除への社会的気運が高まってきたことなどから、2011年に同寺は山口組に対し、参拝を止めるよう伝達し、山口組もこれを了承した[9]

比叡山の修行

籠山行

比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。

十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。早い者で1~2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。

千日回峰行

千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。なお、「千日回峰」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味である[10]

行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちである。回峰行は7年間にわたる行である。

無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となる[11]

5年700日の回峰を満行すると「堂入り」が行なわれる[12]。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥[13]の行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨(あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻る。

満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となる。延暦寺の記録では満行者は47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には酒井雄哉大阿闍梨(2013年9月23日に死去)も含まれる。満行した者はその後2~3年以内に100日間の五穀断ち(米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類の摂取が禁じられる)の後、自ら発願して7日間の断食・断水で10万枚の護摩木を焚く大護摩供を行う。これも“火炙り地獄”といわれる荒行である。

なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への土足参内を行う。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足参内が許されている。

また、回峰行者(マラソンモンク)とチベット僧のルン・ゴム・パとの関連が指摘されている。

境内

比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。

  • 三塔十六谷二別所
    • 東塔-北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷
    • 西塔-東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
    • 横川-香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
    • 別所-黒谷、安楽谷

東塔

延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。

  • 根本中堂(国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝日野氏などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。
  • 文殊楼 - 寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。
  • 大講堂(重文) - 寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は1956年に火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。
  • 法華総持院東塔 - 1980年再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置する。
  • 戒壇院(重文) - 延宝6年(1678年)の再建。
  • 国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。
  • 浄土院 - 東塔地区から徒歩約15分のところにある。宗祖最澄の廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。
  • 無動寺 - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。不動明王と弁才天を祀っている。貞観7年(865年)、回峯行の創始者とされる相応和尚が創建した。
  • 大書院 - 昭和天皇の即位にあわせ東京の村井吉兵衛の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。
  • 阿弥陀堂
  • 灌頂堂
  • 八部院堂 - 790年草創、1988年再建。

西塔

  • 転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。
  • 常行堂・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年(1595年)の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称がある。
  • 瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。
  • 黒谷青龍寺 - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。

横川

西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。

  • 横川中堂 - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
  • 根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
  • 元三大師堂 - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
  • 恵心院

文化財

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嵯峨天皇宸翰光定戒牒(国宝)弘仁14年(823年)
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伝教大師請来目録(国宝)巻末「印可」の部分 唐時代・805年
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伝教大師入唐牒のうち明州牒(国宝)唐時代・804年
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羯磨金剛目録(全文)(国宝)最澄筆 弘仁2年(811年)
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七条刺納袈裟(国宝)唐時代
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山門再興文書(重要文化財)のうち 天正12年(1584年)5月朔日 豊臣秀吉直判

国宝

  • 根本中堂(附:須弥壇及び宮殿3具)
  • 金銅経箱 - 平安時代後期の金属工芸。横川から発掘された。
  • 宝相華蒔絵経箱 - 平安時代後期の漆工芸品
  • 七条刺納袈裟、刺納衣 - 最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品
  • 伝教大師将来目録 - 唐の越州から最澄が将来した経典類の自筆目録
  • 羯磨金剛目録 - 最澄自筆の将来品目録
  • 天台法華宗年分縁起 - 最澄筆
  • 六祖恵能伝 - 最澄が持ち帰った、唐時代の写本
  • 伝教大師入唐牒 - 最澄の唐での通行許可書
  • 光定戒牒(こうじょうかいちょう) - 「三筆」の一人嵯峨天皇の筆

重要文化財

(建造物)

  • 根本中堂回廊
  • 大講堂(旧東照宮本地堂)
  • 転法輪堂(釈迦堂)
  • 大乗戒壇院堂
  • 瑠璃堂
  • 相輪橖(そうりんとう)
  • 常行堂及び法華堂(附:廊下)

(絵画)

  • 絹本著色天台大師像
  • 絹本著色天台大師像 有賛
  • 絹本著色相応和尚像
  • 絹本著色不動明王三大童子五部使者像
  • 絹本著色文殊菩薩像
  • 絹本著色山王本地仏像[14]
  • 紙本著色山王霊験記

(彫刻)

  • 木造釈迦如来立像(釈迦堂安置)
  • 木造聖観音立像(横川中堂安置)
  • 木造光定大師立像(旧所在山麓大師堂)
  • 木造不動明王二童子像(旧所在無動寺明王堂)
  • 木造降三世明王立像(旧所在無動寺明王堂)
  • 木造軍荼利夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
  • 木造大威徳明王像(旧所在無動寺明王堂)
  • 木造金剛夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
  • 木造四天王立像(旧所在根本中堂)
  • 木造四天王立像 2躯(旧所在釈迦堂)
  • 木造千手観音立像(旧所在山王院)
  • 木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂)
  • 木造維摩居士坐像(黒谷青龍寺旧蔵)
  • 木造慈恵大師坐像(黒谷青龍寺旧蔵)
  • 木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵)
  • 木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵)
  • 木造吉祥天立像(滋賀院旧蔵)
  • 木造大黒天立像(律院旧蔵)
  • 木造薬師如来坐像[15]

(工芸品)

  • 尾長鳥繍縁花文錦打敷

(書跡典籍、古文書、歴史資料)

  • 紺紙金銀交書法華経 8巻
  • 紺紙銀字法華経 8巻
  • 華厳要義問答 行福筆 
  • 悉曇蔵 8帖
  • 伝述一心戒文 上中下 3帖 
  • 延暦寺楞厳三昧院解 天禄三年正月十五日 
  • 山門再興文書 4通
  • 道邃和尚伝道文
  • 宗存版木活字(付属品共)

(一山寺院所有分)

以下の重要文化財(比叡山麓坂本の里坊の所有)については、延暦寺が文化財保護法第32条の2の規定に基づく「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている。
  • 恵光院 絹本著色不動二童子像
  • 実蔵坊 絹本著色毘沙門天像 
  • 実蔵坊 水晶舎利塔
  • 大林院 絹本著色不動明王二童子像 
  • 大林院 木造不動明王坐像
  • 寿量院 木造阿弥陀如来坐像
  • 乗実院 木造阿弥陀如来立像
  • 恵日院 木造慈眼大師坐像
  • 求法寺 木造慈恵大師坐像
  • 明徳院 絹本著色地蔵菩薩像
  • 妙行院 木造地蔵菩薩立像
  • 玉蓮院 木造不動明王二童子立像
  • 弘法寺 金銀鍍水瓶 
  • 弘法寺 法華経(装飾経)

上記のほか、以下の重要文化財についても、延暦寺が「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている。

  • 明王院(大津市葛川坊村町)所有
    • 紙本著色光明真言功徳絵詞
    • 絹本着色不動明王二童子像 
    • 木造千手観音・不動明王・毘沙門天立像
    • 葛川明王院文書
    • 葛川与伊香立庄相論絵図
    • 葛川明王院参籠札
  • 蓮台寺(滋賀県栗東市)所有
    • 木造薬師如来両脇侍像

滋賀県指定文化財

(建造物)

  • 阿弥陀堂鐘楼
  • 四季講堂

なお、境内は国の史跡に指定され、「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定されている。 また、1994年12月、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。

焼失した文化財

1942年7月30日落雷による火災で以下の建造物1件、工芸品1件が焼失した。

  • (旧)横川中堂 - 旧国宝建造物。
  • 銅筒 - 金銅経箱(現国宝)の付属品だったもの

1956年10月11日放火により以下の建造物2件、彫刻3件(いずれも当時重要文化財)が焼失した。

  • (旧)大講堂
  • 大講堂鐘台
  • 銅造釈迦如来坐像
  • 木造持国天・多聞天立像
  • 木造阿弥陀如来坐像

脚注

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参考文献

  • 延暦寺執行局編 『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』 比叡山延暦寺刊、1993
  • 東京国立博物館・京都国立博物館編 『最澄と天台の国宝』(特別展図録)、読売新聞社刊、2005
  • 井上靖、塚本善隆監修、安岡章太郎、誉田玄昭著 『古寺巡礼京都26 延暦寺』 淡交社、1978
  • 竹村俊則 『昭和京都名所図会 洛南』 駸々堂、1982
  • 『比叡山 天台宗開宗千二百年記念(別冊太陽)』 平凡社、2006  
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』16号、朝日新聞社、1998
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』 角川書店
  • 『国史大辞典』 吉川弘文館
  •  日本仏教の礎  佼成出版社 2010

関連項目

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外部リンク

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  1. 「境内案内」(延暦寺公式サイト)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 テンプレート:Cite book
  3. 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite book
  4. 4.0 4.1 テンプレート:Cite book
  5. 中世史家の伊藤正敏は、これ以降、京は比叡山の経済的影響を強く受けた「叡山の門前町」となり、また、この1070年をもって「中世の開幕」とすべきと主張している。伊藤正敏『寺社勢力の中世』ちくま新書
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. 大津市:残土問題 公害調停成立 延暦寺霊園近隣、市が崩落防止工事 毎日新聞 2014年7月7日
  9. テンプレート:Cite news
  10. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  11. ちょっと雑学 三大地獄:奥比叡ドライブウエイ
  12. テンプレート:要出典範囲
  13. 「臥」とは、横たわるの意味である。
  14. 本像は滋賀県草津市の観音寺(芦浦観音寺)旧蔵で、個人所有を経て後に延暦寺に寄進されたもの。
  15. 本像は1944年兵庫県の個人所有として重文(旧国宝)に指定され、後に延暦寺に寄進されたもの。