栄西

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栄西(えいさい、ようさい、永治元年(1141年) - 建保3年(1215年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期のである。明菴 栄西(みんなん えいさい、みんなん ようさい)とも呼ばれる。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また、廃れていた喫茶習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

生年には異説がある。生地は備中国賀陽郡岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町)。

経歴

  • 永治元年(1141年)吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。曽祖父は薩摩守貞政。誕生地は、賀陽町(現岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もある。
    • 紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
  • 久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
  • 久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度
  • 仁安3年(1168年) 形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
    • 当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、を用いることを決意し学ぶこととなった。
  • 文治3年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
  • 建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法印可を受ける。同年、帰国。
    • 福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前肥後を中心に布教に努める。
  • 建久5年(1194年) 彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
  • 建久6年(1195年博多聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。
    • 同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
  • 建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。
    • 禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。
    • 京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
  • 正治2年(1200年北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
  • 建仁2年(1202年源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。
    • 建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
  • 建永元年(1206年) 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
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栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市)
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茶碑、建仁寺、京都市東山区
  • 建暦2年(1212年法印に叙任。
  • 建保元年(1213年権僧正に栄進。鎌倉幕府2代将軍源頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。
  • 建保3年(1215年享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(6月5日・7月5日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが[1]、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している[2]

他者からの栄西観

  • 日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最新の研究では会っていたとされる。

主な著作

  • 誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。
  • 『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対するの効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
  • 『無明集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。
    • 大須観音は『無明集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。

関連項目

脚注

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参考文献

著作文献

  • 『栄西 興禅護国論・喫茶養生記』 古田紹欽訳・著、講談社〈禅入門1〉、1994年 ISBN 978-4-062-50201-6
    上記元版は『栄西 「日本の禅語録. 第1巻」』、1977年
  • 『明菴栄西 興禅護国論 原典日本仏教の思想.10』 柳田聖山校注、岩波書店、1991年 ISBN 978-4-000-09030-8
     他は一休宗純抜隊得勝ほかの校注、元版『日本思想大系16 中世禅家の思想』
  • 『栄西 金剛頂宗菩提心論口決・出家大綱』 中尾良信訳
     他は明恵の現代語訳注、中央公論社「大乗仏典 中国・日本篇.第20巻」、1988年 ISBN 978-4-12-402640-5
  • 『栄西 興禅護国論 傍訳』 西村惠信監修:安永祖堂編著、四季社、2002年 ISBN 978-4-884-05137-2

外部リンク

  • 吾妻鏡』建保三年六月小五日条によれば結縁を願って鎌倉中の人々が集まり、大江親広が臨終に立ち会ったという。親広は『吾妻鏡』建保三年四月小十八日丁未条で在京御家人の奉行に任命されている。
  • 舘隆志「栄西の入滅とその周辺」(『駒沢大学禅研究所年報』21、2009年)。