ルイ・ボナパルト
テンプレート:基礎情報 君主 ルイ・ボナパルト(Louis Bonaparte, 1778年9月2日 - 1846年7月25日)は、シャルル・マリ・ボナパルトの五男でナポレオン・ボナパルトの弟。兄によって帝国顕官国民軍総司令官、ホラント(オランダ)王、サン=ルー伯の位を与えられた(オランダ語名Lodewijk Napoleon)。
兄のイタリア遠征やエジプト遠征に参加した。後にリウマチにかかる。
兄の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの連れ子であるオルタンス・ド・ボアルネと結婚した。オルタンスとの間には男子3人が生まれた。
- ナポレオン・シャルル・ボナパルト(1802年 - 1807年)
- ナポレオン・ルイ・ボナパルト(1804年 - 1831年) ホラント王ローデウェイク2世
- シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808年 - 1873年) フランス皇帝ナポレオン3世
しかし陰気な性格のルイと、ジョゼフィーヌに似て陽気で社交的なオルタンスとは性格が合わず、夫婦仲は悪かった。
フランス革命戦争の結果、オランダには1795年にバタヴィア共和国が成立していた。ナポレオンはオランダをイギリス侵攻のための基地と位置づけ、自らの意思に即応できる体制を整えるため、ルイを国王としてオランダに送った。ルイは1806年6月22日にハーグに入り、バタヴィア共和国はホラント王国と名を改めて、ルイはホラント王ローデウェイク1世となった。
しかしルイは兄の傀儡ではなかった。オランダ人の利益にも配慮し、オランダの王としての責務を良心的に果たした。内政や経済復興にも関心を示し、ナポレオン法典の導入やカトリック教会の復権などを実現し、一方で徴兵制の導入を拒否した。大陸封鎖令にも反対したが、このことと密貿易の横行、さらに1809年にイギリス軍がゼーランド州に上陸したことなどもあって、ナポレオンは1810年に2万人の軍隊をオランダへ派遣する一方、ルイを退位させた。ルイはボスニアに亡命し、ホラント王国はルイの退位後10日間、ルイの次男ナポレオン・ルイを国王ローデウェイク2世とした後、フランス帝国に併合され、ルブランが総督としてアムステルダムに駐在した。
また、同じ1810年にルイはオルタンスと離婚した。子供のうち三男のシャルル・ルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。
|
|