上杉憲方

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上杉 憲方(うえすぎ のりまさ[1]/のりかた)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将守護大名関東管領上野武蔵伊豆下野安房守護。上杉憲顕の子で憲将憲賢能憲憲春憲英憲栄は兄弟。憲孝房方憲定、憲重の父。

天授2年/永和2年(1376年)に病床にあった兄・能憲から所帯等を譲られ、天授4年/永和4年(1378年)4月の能憲の死の直前には憲春が務めていた上野守護職や憲春の所領も憲方が知行すべき分として譲られた。能憲の死後、関東管領には憲春が任じられたが、山内上杉家の家督は憲方だった。

約1年後の天授5年/康暦元年(1379年3月7日、憲春が自害した。康暦の政変に乗じて攻め上がろうとする鎌倉公方足利氏満に対する諌死だったという。同年3月21日頃に憲方は関東軍の大将として派遣されたが、上洛はせずに伊豆三島に留まった。4月15日に関東管領に任じられ、28日には鎌倉へ戻った。5月には憲春が維持していた上野守護職も憲方に安堵された。

弘和2年/永徳2年(1382年)1月に管領職から退いたが、6月に再任されている。武将としての器量に優れ、氏満を補佐しながら小山義政若犬丸父子の反乱鎮圧に功を挙げた(小山氏の乱)。それらの功績により上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を与えられている。元中9年/明徳3年(1392年4月22日、老齢と病身を理由に管領職から退いた。ただし、その後も引き続き関東管領として在職していたとする説もある[2]

応永元年(1394年)10月24日に死去。享年60。墓所は自身が鎌倉に建立した明月院。法号は明月院天樹道合。

脚注

  1. 黒田基樹は上杉氏における「方」を“まさ”と読むのが正しいとする説を唱えており、「氏満期の上杉氏」(黒田 編『関東足利氏の歴史第2巻 足利氏満とその時代』(戎光祥出版、2014年))における憲方の解説でも「憲方(のりまさ)」と読み仮名を振っている(P234)。
  2. 小要博「関東管領補任沿革小稿-その(二)-」 芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版、1997
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上杉憲方の墓

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