西端藩

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西端藩(にしばたはん)は、三河国(現在の愛知県碧南市湖西町)に存在した。藩庁は西端陣屋に置かれた。[1]

藩史

近江国膳所藩本多康俊の次男本多忠相が、元和2年(1616年)に三河国碧海郡西端で1000石を賜り立領。その後三河国・上総国下総国安房国で加増を重ね8000石の大身旗本となる。子の忠将の時さらに加増されて9000石を領す。天明3年(1783年)、忠直の時に西端に陣屋を置いた。

元治元年(1864年)、第10代領主本多忠寛江戸警備の功績などにより1万500石への高直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日に忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の忠鵬が家督を相続した。忠鵬は明治元年(1868年)に新政府方に与して陣屋を官軍に兵営として貸し与えた。

翌年6月には農民兵を募集して洋式訓練を行い藩政改革を行ない始めたが、間もなく同月23日に版籍奉還となり、忠鵬は藩知事となって華族に列した。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となり、旧領はその後西端県額田県を経て、愛知県に編入された。忠鵬は明治17年の華族令子爵を授爵している。

歴代領主

本多(ほんだ)家

1000石 → 8000石 → 9000石。旗本寄合席

  1. 本多忠相
  2. 本多忠将
  3. 本多忠能(ただよし)
  4. 本多忠敞(ただたか)
  5. 本多忠栄(ただなが)
  6. 本多忠直(ただなお)
  7. 本多忠盈(ただみつ)
  8. 本多忠和(ただかず)
  9. 本多忠興(ただおき)
  10. 本多忠寛 → 1500石の高直しで都合1万500石となり諸侯に列す

歴代藩主

本多(ほんだ)家

1万500石。譜代

  1. 本多忠寛
  2. 本多忠鵬

幕末の領地

明治維新後に、多摩郡3村(旧公儀御料)が加わった。

脚注

  1. 二木謙一監修・工藤寛正編『国別 藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年9月20日発行(351ページ)

関連項目

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