北条貞時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士 北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。8代執権北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。

生涯

家督相続と霜月騒動

文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。幼名幸寿丸建治3年(1277年)、元服貞時を名乗る。

弘安7年(1284年)4月、父・時宗が病死し13歳(満12歳)で執権に就任する。だが8月には北条時光(ときみつ、北条家佐介流)の陰謀事件が起こるなど[1]、その初期治世は安定しなかった。これは貞時に兄弟がおらず、また叔父(父の実弟)であった北条宗政など有力親族が早世していたために幼い貞時を支えるべき藩屏が全く存在していなかったためとされる。

このため幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も犯したために幕府内で孤立した[2][3]。このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。

弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった[4]

平禅門の乱と独裁権の強化

正応2年(1289年)には将軍惟康親王を退けて、久明親王を擁立している。

頼綱は貞時を擁して御家人保護を全面に出す事で権力基盤としていたが、内管領とは得宗家の家政機関の首長として強大な権力を持つ一方で幕府の主要構成員である評定衆・引付衆ではない御内人であり、将軍家に仕える御家人と北条家に仕える内管領ではそもそも身分差が大きく幕政を主導する事自体に無理があった[5]。このため泰盛派の生き残りである宇都宮景綱ら有力御家人らの反勢力による不満が高まり、頼綱は窮余の策として得宗被官に監察権を与えて強圧的な政権運営を行なうが、これにより成長した貞時からも見切りをつけられることになる[6]。正応6年(1293年)4月22日、貞時は幕政を壟断していた頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。

実権を取り戻した貞時は、一門の北条師時(従兄弟、宗政の子でのち第10代執権となる(後述参照))や宗方らを抜擢し、また霜月騒動で追放されていた金沢北条家の北条顕時らの復権も断行して父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた[7]。10月には引付衆を廃止して顕時・師時・宗宣(のち第11代執権(後述参照))・長井宗秀・宇都宮景綱・時村公時ら7名を新設した執奏に任命するなど泰盛派の登用を後ろ盾として[8]訴訟制度改革を行い、得宗家による専制政治の強化に努めた。また、元寇後にも薩摩沖に異国船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置するとともに、西国の守護を主に北条一族などで固めるなどして、西国支配と国防の強化を行なっている。そして、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するために、永仁5年(1297年)に永仁の徳政令(関東御徳政)を発布するが、これは借金をしにくくなるという逆効果を招き、かえって御家人を苦しめた。

執権退任と嘉元の乱

正安3年(1301年)、鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。

嘉元3年(1305年)4月22日、貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった[9]。貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして五大院高頼らを誅殺し、5月4日には宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した[10]。この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と歴代にわたって冷や飯を食わされていた北条宗宣の対立が背景にあったとされている[11]

乱れた晩年と最期

徳治3年(1308年)8月4日には将軍の久明親王を廃して子の守邦親王が擁立された[12]。また幼い息子である北条高時の足場固めの布石として長崎円喜安達時顕を登用し彼ら2人を高時を補佐する両翼として備えようとした。延慶2年(1309年)1月には高時の元服式を行なっている[13]

だが幕府の内外に問題を抱え、家庭的にも息子2人に先立たれた貞時の政治は次第に精彩を欠いて情熱は失われた。貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、御内人平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている[14]

応長元年(1311年)9月22日には高時が成長するまでの中継ぎであった執権の師時が死去し[15]、嘉元の乱で貞時と対立した宗宣が執権に就任するなど[16]、最晩年の貞時政権下では世代交代と[17]、得宗権力の弱体化が少しずつ始まっていたようである。貞時は師時の後を追うように1ヵ月後の10月26日(1311年12月6日)に死去[18]享年41[19](満39歳没)。

死に臨んで、貞時は長崎円喜と安達時顕の二人を枕元に呼び寄せ、高時を補佐し幕府を盛り立ててゆくよう命じたという。廟所は鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺の塔頭仏日庵。木像も納められている。

人物・逸話

古典『太平記』では、貞時は祖父の5代執権北条時頼と同様の廻国伝説がある。

貞時は得宗家による専制の強化を通じて幕府の権威回復に乗り出した。この改革を助けたのが、得宗の側近として活動してきた長崎円喜ら御内人であった。だが、得宗とその周辺への権力の集中は、やがて御内人をはじめとする幕府首脳部への権力の一極集中を促し、政治の腐敗などに繋がった。政治の紊乱は悪党の蠢動などの社会不安を惹起するなど、後の後醍醐天皇による討幕運動が始まる遠因を作り出した時代でもあった。

晩年の貞時の行状は乱れて連日のように酒宴を開いたが、一門の北条貞顕すらもその乱行に嘆いて書状で「連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、欺き入り候、欺き入り候」と評し、また貞顕は円喜に奏上を頼んだ用件が年を越えても未だに奏上されていない事にも慌てたという(延慶3年初頭における貞顕書状)[20]。この貞時の乱行が次代の高時の乱行として引用される事もある[21]

経歴

※ 日付=旧暦

偏諱を受けた人物

北条氏一門


その他(御家人など)


参考文献

登場作品

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

テンプレート:Navbox

テンプレート:北条氏得宗
  1. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』226頁。
  2. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』9頁。
  3. 元の位置に戻る ただし、安達泰盛の施策を自身が後見する得宗家の勢力を強化する意図があったとする見方もある(五味文彦「得宗専制政治」『国史大辞典』第10巻、吉川弘文館、1989年 P313-314)。
  4. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』9頁・10頁。
  5. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』11頁。
  6. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』12頁。
  7. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』12頁。
  8. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』12頁・13頁。
  9. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』39頁。
  10. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』40頁。
  11. 元の位置に戻る 細川重男の『鎌倉政権得宗専制論』)『金沢貞顕』43頁。
  12. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』51頁・52頁。
  13. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』63頁。
  14. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』68頁。
  15. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』73頁。
  16. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』73頁。
  17. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』74頁。
  18. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』74頁。
  19. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』74頁。
  20. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』67頁・68頁。
  21. 元の位置に戻る 『金沢貞顕』68頁。