足利貞氏
足利 貞氏(あしかが さだうじ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人。足利家時の嫡男。室町幕府初代将軍となる足利尊氏やその弟・足利直義の父。
生涯
父・家時の死去の後を受けて足利氏当主となる。第9代執権・北条貞時の偏諱を賜り、貞氏と名乗った[1]。貞氏は当時10歳前後の少年であり、祖父・足利頼氏以来3代続けての幼少の当主である。執事高氏の補佐をうけた。北条顕時の娘を正室に迎えるなど、家時の自害のあとを受けても歴代の足利氏当主と同様に北条氏との関係を重視した。
応長元年(1311年)に出家したと『尊卑分脈』に記されるが、正安3年(1301年)、執権・貞時の出家に伴って出家したと言う説もある。ただし、北条貞時の隠居・出家に伴って貞氏も隠居・出家したとすれば、先に誕生していた正室との間の子・高義が先に家督相続をしたと考えられる。その高義の早世ののちは、再び貞氏が家政を担っており、生存中に高氏(尊氏の初名)には家督を譲っていない[注釈 1][2]。
第8代将軍久明親王の室のための祈祷の際に雑事役や、嘉元3年(1305年)に起きた嘉元の乱の際には、連署の北条時村を殺害した与党の一人、海老名秀綱(海老名氏)の預かりを務めている(『鎌倉年代記』)[3]などの公的活動が知られる。貞氏の頃は足利氏の家政機関が整い、それら機関の活動も充実し、足利氏被官のもとに残された数多くの貞氏発給文書が残されている。鎌倉における足利氏の菩提寺浄妙寺を再興した他、弘安4年(1281年)に落雷で焼失していた足利鑁阿寺大御堂の再建も行っている。
元弘元年/元徳3年(1331年)9月5日、59歳で死去。前述の通り長男の高義は早世していたため、側室の産んだ次男の尊氏が家督を継いだ。尊氏が北条氏の鎌倉幕府に反旗を翻して滅ぼす2年前であった。
注釈
- 元の位置に戻る ↑ 高義の死後に元服した高氏(尊氏)の仮名が宗家嫡男に付けられる「三郎」ではなく「又太郎」であったことなどから、高義の遺児の成長もにらんで高氏(尊氏)の家督相続が直ちに確定したわけではないようである。足利宗家では2代目の義兼から代々、正室所生の嫡男が幼少であっても庶系には家督を譲らず、庶兄・庶伯父などが直系嫡男が家督相続するまでの家政の代行を担ったり援助していた。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.18 「足利貞氏」の項(執筆:福田豊彦)
- 田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0
関連項目