足利家時
足利 家時(あしかが いえとき)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人である。
系譜
父は足利頼氏、母は上杉重房の娘。彼女は頼氏の側室であったと考えられ、源頼朝の重臣であった足利義兼以来の北条氏の娘を母としない足利氏当主となった(父・頼氏の正室については今までは不明であったが、北条氏の傍流佐介時盛の娘であるとする系譜が発見されている)。 足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった[1]が、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時が家督を継いだ。これまでの足利嫡流家歴代当主の諱は足利義氏以来、泰氏が北条泰時からの偏諱[1]、頼氏が北条時頼からの偏諱[1]に通字の「氏」を付けるといったように、「北条氏得宗家当主の偏諱+「氏」」で構成されていた[2]のに対して家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだ[1]が、代わりに用いられた「時」の字は北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられている[3]。
生涯
家時の活動の初見は文永3年(1266年)に被官倉持忠行に袖判下文を与えたことである。この時7歳程度であったと考えられる。
文永6年(1269年)氏寺である足利鑁阿寺に寺規を定めるなど同寺の興隆に力を注いでいる。この頃には幼年の家時に代わって当主代行を務めたと考えられる斯波家氏がその座を譲り、家時が名実ともに足利家当主となったと思われる。文永10年(1273年)、14歳の時に常盤時茂の娘との間に嫡男(足利貞氏)を儲ける。同年高野山金剛三昧院の僧法禅と所領を巡って訴訟となって争ったが、弘安2年(1279年)に敗訴している。この為か、幕府に対して批判的になっていったといわれる。その一方で、この裁判の過程で作成された建治2年(1276年)に幕府が作成した裁許状案[4]の文中に、当時17歳であった家時が既に式部大夫(従五位下式部丞)であった事が注目される。仮に17歳で叙爵されたとしても、同時期の武家では北条分家の有力者赤橋義宗と同年齢で叙爵を受けていたことになる(これより早いのは北条時宗・宗政兄弟のみ)。更に弘安5年(1282年)11月25日には23歳で伊予守に補任されているが、武家の国守補任においては15歳で相模守となった時宗を例外とすれば最も若かった。しかも、武家での伊予守補任は源義経以来で家時の後も鎌倉時代を通じて北条一門の甘縄顕実のみで、当時の元寇に際して有力武家である足利氏の協力が必要と言う背景があったとしても、幕府からは破格の厚遇を受けていたとする指摘もある[5]。
この頃、鎌倉幕府内では執権・時宗の公文所執事(内管領)であった平頼綱と御家人の実力者であり幕府の重臣であった安達泰盛の争いが激化し、時宗没後の弘安8年(1285年)11月には霜月騒動と呼ばれる武力衝突が起こり、泰盛は敗死し、以後頼綱の専制政治が始まる。足利氏はこの泰盛に接近し、霜月騒動では一族吉良氏の足利上総三郎(吉良満氏か)が泰盛に与同している。家時は前年弘安7年(1284年)6月25日に亡くなっている。一説には弘安8年説があるものの、弘安7年7月26日に橘知顕が伊予守に補任されている(『勘仲記』)のは、前任者の家時の死によるものと考えられている。
家時の死の背景には泰盛の強力な与党であった北条一門佐介時国(義理の外叔父)の失脚に関連して自害したのではないか、とされる。その一方で、家時は将軍惟康親王に近侍して執権北条時宗と結びつけた側近的存在であり、元寇を受けて強まった「源氏将軍」を待望する空気の高揚を嫌い、北条時宗に殉死することで得宗家への忠節を示し、鎌倉幕府最末期まで足利氏が北条得宗家に重用される一因になったとする説もある[6]。
墓所は鎌倉に功臣山報国寺で、家時は開基とされるが、報国寺の開基は南北朝期の上杉重兼(宅間上杉家祖)である。家時と関係の深い上杉氏が供養したのであろう。
置文伝説
足利氏には、先祖に当たる平安時代の源義家が書き残したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害し、三代の子孫(つまり孫)にあたる足利尊氏・直義兄弟はこれを実見し、今川貞世(了俊)もこれを見たと、貞世の著作である『難太平記』には記されている。尊氏と直義は後に鎌倉幕府を滅ぼして、後醍醐天皇の建武政権樹立に多大な貢献をしたが、最後の得宗北条高時の子北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占拠したのに対し、天皇に無断で鎌倉に下って乱を平定したのを機に、建武政権から離反して再び武家政権を樹立する運動を開始している。家時の願文が尊氏挙兵の動機とも考えられている。
源義家の置文が実在した可能性は低い。そもそも、源義家の置文が傍流である足利氏に継承されたという点で、矛盾がある。ちなみに嫡流と言える義家四代後の子孫源頼朝は、征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いている。義家がこのような置文を残したのが事実であったとすると、義家が七代目に生まれ変わる前に、四代目で既に天下取りは成就済という事になる。
そのため、源義家の置文には偽作説も唱えられている。しかしながら家時が執事高師氏に遣わした書状を、師氏の孫で尊氏の執事となった高師直の従兄弟である高師秋が所持しており、直義がこれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文を送って正文は自分の下に留め置いた、という文書が残っている。『難太平記』のいう置文は、実際にはこの文書を指している可能性があるが、詳細は不明である。 そのため、置文の実際の作者は義家では無く、家時自身だと推測されている。
登場する作品
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(田中、2013年、p.67)。
- ↑ 田中大喜 「総論 中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、p.25)。
- ↑ 小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中、2013年、p.131)。年代を考慮すれば北条時宗から下賜されたものと思われる。「家」の字については由来は不明だが、祖先の源義家或いは家時の成長まで当主代行を務めていた伯父・家氏からのものと考えられる。
- ↑ 建治2年8月2日付関東裁許状案(『鎌倉遺文』12437号)
- ↑ 前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)/所収:田中、2013年)
- ↑ 田中大喜「中世前期下野足利氏論」(田中、2013年)