北条泰時
テンプレート:基礎情報 武士 北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。
目次
生涯
出生から承久の乱まで
寿永2年(1183年)、北条義時の長男として生まれる。幼名は金剛。母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明。父の義時は21歳、祖父の時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃である。
金剛が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えた。『吾妻鏡』に収録されるこの逸話は、泰時の高邁な人柄と、頼朝の泰時に対する寵愛を端的に表した話と評されている[1]。
建久5年(1194年)2月2日、13歳で元服する。幕府の初代将軍となった頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って、頼時と名乗る。具体的な時期は不明だが、後に泰時に改名した。
頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の建仁2年(1202年)8月23日に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年嫡男時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で比企討伐軍に加わる。
建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。建暦2年(1212年)5月、異母弟で正室の子であった次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父義時に義絶され、失脚している。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。
建保6年(1218年)には父から侍所の別当に任じられる。承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。
承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
第3代執権
貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。伯母である尼御台・北条政子は泰時と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。泰時は政子の後見の元、家督を相続して42歳で第3代執権となる。伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している[2]。義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時は「自分は執権の身ですから」として辞退したという。伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。泰時は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。これが後の得宗・内管領の前身となる。
嘉禄元年(1225年)6月に有力幕臣・大江広元が没し、7月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。後ろ盾となり、泰時を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになった。[3]
泰時は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した。叔父の時房を京都から呼び戻し、泰時と並ぶ執権の地位に迎え「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。泰時は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。
3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は嘉禄3年(1226年)、正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降6年余、幕府は征夷大将軍不在であった)。頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言した。この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。 また、鎌倉の海岸に操船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時だった。
一方、家庭内では嘉禄3年(1227年)6月18日に16歳の次男時実が家臣に殺害された。3年後の寛喜2年(1230年)6月18日には長男の時氏が病のため28歳で死去し、1ヶ月後の7月に三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は10日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。
御成敗式目
承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。泰時は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。
泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。はじめはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。
『御成敗式目』は日本における最初の武家法典である。それ以前の律令や、明治以降の各種法令が基本的に中国法あるいは欧米法の法学を基礎として制定された継承法であるのに対し、式目はもっぱら日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設した法令であるという点で、日本の法の歴史上画期的なものとなった。室町時代、江戸時代の幕府法も式目を基にしている。
晩年
数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、寛喜3年(1231年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、それへの対応に追われた。御成敗式目制定の背景にはこの社会不安もある。
嘉禎元年(1235年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、強権を発して寺社勢力を押さえつけた。興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。
仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。この強引な措置により、九条道家や西園寺公経ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。新天皇の外戚(叔父)である土御門定通は泰時の妹である竹殿を妻としていたため、以後泰時は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させていくことになる。
最期
仁治2年(1241年)6月27日に泰時は体調を崩しており騒ぎになった(『吾妻鏡』)。この時は7月20日に回復している(『吾妻鏡』)。
仁治3年(1242年)5月9日、出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号した(『鎌倉年代記』裏書)。この時、泰時の異母弟の朝時をはじめ、泰時の家来50人ほども後を追って出家した[4]。
1ヶ月半後の6月15日に死去した[4]。享年60[4]。奇しくも、義時、政子、大江広元と、北条氏政権で枢要な地位にあった人物も泰時と同じ6月~7月に没しており、また承久の乱で3上皇が配流されたのも同じ季節だったため、巷では上皇らの怨霊による祟りではないかという風聞が流布した。
実際の死因は京都の公家の日記である『経光卿記抄』6月20日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ、6月26日条では高熱に苦しみ、さながら平清盛の最期のようだったと伝えている[4]。皇位継承問題が大きな心労になったともされている[4]。
死の翌日に第4代執権には早世した時氏の長男である孫の北条経時が就任した(『尊卑文脈』『系図簒要』)。
後白河、後鳥羽院政が強力だった承久の乱以前の幕府は御家人の権益を擁護して旧勢力と対抗する立場にあったが、院政の実質的機能が失われた承久の乱以降は、幕府は貴族・寺社等の旧勢力と、地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、両者の対立を調停する権力として固定した。父の義時の偉業を継いで北条執権体制を軌道に乗せた泰時は、名執権と称えられる。
人物・逸話
泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評価をされる傾向にある。同時代では、参議・広橋経光などが古代中国の聖人君子に例えて賞賛している。
泰時の政治は当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現するとされ、彼のすぐれた人格を示すエピソードは多く伝えられる。沙石集は泰時を「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」と評し、裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほどに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝えている。
例えば次のような話が沙石集にある。
- 九州に忠勤の若い武士があった。彼の父は困窮のため所領を売り払う破目に陥った。彼は苦心してそれを買い戻し父に返してやった。しかし父は彼に所領を与えず、どういったわけか全て彼の弟に与えてしまったため、兄弟の間で争論があり、泰時の下で裁判となった。立ち会う泰時は、初め兄の方を勝たせたいと思った。しかし、弟は正式の手続きを経ており、御成敗式目に照らすと弟が明らかに有利である。泰時は兄に深い同情を寄せながらも弟に勝訴の判決を下さざるを得なかった。泰時は兄が不憫でならなかったので、目をかけて衣食の世話をしてやった。兄はある女性と結婚して、非常に貧しく暮らした。ある時、九州に領主の欠けた土地が見つかったので、泰時はこれを兄に与えた。兄は「この2、3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事も十分に食べさせ、いたわってやりたいと思います」と感謝を述べた。泰時は「立身すると苦しい時の妻を忘れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だ」と言って旅用の馬や鞍の世話もしてやった。
- ある地頭と領家が争論した際、領家の言い分を聞いた地頭は直ちに「負けました」と言った。泰時は「見事な負けっぷりだ。明らかな敗訴でも言い訳をするのが普通なのに、自分で敗訴を認めた貴殿は実に立派で正直な人だ。執権として長い間裁判をやってきたが、こんなに嬉しい事は初めてだ」と言って涙ぐんで感動した。
- 源頼家に仕えていた19歳の頃、頼家が蹴鞠に凝って幕政を顧みないことを憂いて諫言したことがある。寛喜の飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。
このように誠実に仕事をこなしたため公家や民衆からも評判がよく、泰時が植えた柳の日陰で休む旅人が泰時に感謝する逸話もある。
しかし一方で近衛経兼などは承久の乱後の朝廷に対する厳正な措置を恨み、泰時を平清盛に重ねて悪評を下している。このような公家の一部の悪感情を反映してか泰時の死に際しては後鳥羽上皇の祟りを噂するものもいた。
鎌倉幕府滅亡後、北条氏に対する評価は皇室に対する処遇を巡る大義名分論を中心に行われ、北条高時などが暗君として評価されているが、泰時は徳政を讃えられる傾向にある。南北朝時代には南朝方の北畠親房が『神皇正統記』において、江戸時代には武家の専横を批判する新井白石も肯定的評価をしている。一方で、江戸期の国学振興においては本居宣長や頼山陽などの国学者が泰時を批判するようにもなった。
また鎌倉幕府北条氏による後世の編纂書『吾妻鏡』には、泰時に関する美談が数多く記されているが、中には他人のエピソードを流用している作為も見られる(吾妻鏡#得宗家の顕彰参照)。
経歴
※日付は旧暦
- 建久5年(1194年)、2月2日、元服。
- 建暦元年(1211年)、9月8日、修理亮に任官。
- 建保4年(1216年)、3月28日、式部丞に遷任。12月30日、従五位下に叙位。式部丞如元。
- 建保6年(1218年)、讃岐守に転任。
- 建保7年(1219年)、1月5日、従五位上に昇叙。讃岐守如元1月22日、駿河守に遷任11月13日、武蔵守に転任。
- 承久3年(1221年)、6月16日、幕府六波羅探題北方となる。
- 貞応3年(1224年)、6月17日、六波羅探題退任。6月28日、執権となる。
- 貞永元年(1232年)、4月11日、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
- 嘉禎2年(1236年)、3月4日、従四位下に昇叙。武蔵守如元。12月8日、左京権大夫兼任。
- 嘉禎4年(1238年)、3月18日、従四位上に昇叙。左京権大夫・武蔵守如元。4月6日、武蔵守辞任。12月7日、左京権大夫辞任。
- 延応元年(1239年)、9月9日、正四位下に昇叙。
- 仁治3年(1242年)、5月9日、出家。6月15日、卒。享年60。法名常楽寺観阿。菩提所鎌倉市大船の粟船山常楽寺。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 高橋慎一朗 『北条時頼』吉川弘文館(人物叢書)、2013年
- 石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 中公文庫
- 上横手雅敬 『北条泰時』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2000年新装版 ISBN 4-642-05135-X
- 山本七平 『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理 』(PHP文庫)ISBN 978-4569564630
- 史料
- 『吾妻鏡』
- 『尊卑文脈』
- 『系図簒要』