大江広元

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大江 広元(おおえ の ひろもと[1]、旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。

生涯

久安4年(1148年)に生まれる。生年は『吾妻鏡』や『鎌倉年代記』、『関東評定伝』などが嘉禄元年(1225年)に78歳で死去したとする記事を載せていることからの逆算である。なお、『尊卑分脈』では嘉禄元年に83歳で死去し、生年は康治2年(1143年)としている。

広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。

当初は中原姓を称し、中原 広元(なかはら の ひろもと)といった。大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のことである。

この折、改姓宣旨を願った申状が『吾妻鏡』閏6月14日の条に載っているが、その申状(建保4年6月11日付、宣旨は同年閏6月1日)では、養父中原広季に養育された恩はあるが、大江氏の衰運を見逃すことはできないとして実父大江維光の継嗣となることを望んでいる。

広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。寿永2年(1183年)10月に親能は源義経の軍勢と共に上洛し、翌元暦元年(1184年)正月にも再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。

その親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。『吾妻鏡』文治元年11月12日の条によると、頼朝が守護地頭を設置したのも広元の献策によるものであるという[2]

正治元年(1199年)の頼朝死後は、後家の北条政子執権北条義時と協調して幕政に参与した。承久の乱の際は嫡男・親広が官軍についたため親子相克する。『吾妻鏡』は、広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している[3]

和田合戦に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権の義時とともに「連署」をした文書が存在する[4]。 また頼朝が強いつながりを持っていなかった土御門通親などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになっている。こうしたことから、広元の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占めるものだったことが指摘されている。

なお、頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されていた。頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる。

逸話

  • 「成人してから後涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話[5]がある。その真贋は定かではないが、広元の情に流されない冷静な人物像が反映された逸話である。
  • 鎌倉に大江広元の墓と伝えられるものがあるが、これは江戸時代に長州藩によって作られたものであり、広元の墓とする根拠はない。地元の言い伝えによると鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓とされている。
  • 承久の乱後鳥羽上皇側に付いた嫡男・大江親広は乱の終結後出羽国寒河江荘に潜居するが、父広元の訃報に接し息子大江佐房に命じて阿弥陀如来を作らせ遺骨を納入して、寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したという。親広も没すると阿弥陀堂の傍らに葬られた。

系譜

藤原光能? - 正三位、参議。治承三年の政変で一時解任されるが復位する。

末裔

三河国酒井氏因幡国毛利氏出雲国の多胡氏など大江広元を祖とする家は多いが、真偽のほどは不明である。子孫には「元」や「広」を通字としている家が多い。

官歴

※日付はすべて旧暦

出典・補注

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参考文献

  • 上杉和彦『大江広元』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。ISBN 4-642-05231-3
  • 朝尾直弘編『岩波講座 日本通史第7巻 中世1』 岩波書店、1993年。ISBN 4-00-010557-4
  • 石井進 編『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 中公文庫、2004年。ISBN 4-12-204455-3
  • 五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』 吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-07771-5
  • 細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 吉川弘文館、2000年。 ISBN 4-642-02786-6

外部リンク

  • 大江は本姓苗字ではないため、大江広元は「の」を入れて「おおえ ひろもと」と読む。
  • しかし1960年(昭和35年)に石母田正がこの問題を詳細に分析し、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代の後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そこから盛んな論争が巻き起こり(石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 天下の草創 p187-p195)、現在では広元の献策として「権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課す云々」とあるは、
    1. 「諸国平均」といっているのではなく、「五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国」といっているものであり
    2. 1185年の要求は源義経源行家の捜索・追捕を名目とした一国単位の「国地頭」と「総追捕使」を要求したものであって
    3. したがって「守護」職の開始はこのときではなく、建久元年(1190年)に頼朝が初めて上洛し、後白河法皇九条兼実らと合意の上で得た「諸国守護」を奉行する権限に始まる(岩波講座『日本通史巻8 中世2』 p61-p63)
    というのが定説となりつつある。
  • ただしこれも「守護・地頭」の件と同様に、顕彰記事の疑いがあるともいわれている。
  • 『吾妻鏡』建保元年5月3日条及び「醍醐寺文書」所収建保4年2月15日関東下知状案(『鎌倉遺文』2210号)。
  • 上横手雅敬「歴史文化セレクション 鎌倉時代 その光と影(吉川弘文館) ISBN 4-642-06304-8」133P
  • 異説として公文所・政所の両所並存・別当兼務説がある。