源行家

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行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町)

源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。

生涯

熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。平治元年(1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。治承4年(1180年)、摂津源氏源頼政に召し出され以仁王平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。

甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。養和元年(1181年)、尾張国墨俣川の戦い三河国矢作川の戦いで二回に亘り平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため、以降は甥の源義仲の幕下に走った。義仲の下では能登国越中国国境での志保山の戦いに参加している。

寿永2年(1183年)、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、従五位下備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。播磨国平知盛重衡軍との室山の戦いでまたしても敗北を喫し、さらに義仲が派遣した樋口兼光にも敗れて行方不明となった。生来交渉力があリ、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである[1]

義仲が頼朝の派遣した源範頼義経の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(1184年)2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉国河内国(河内源氏の本拠地)を支配していた。元暦2年(1185年)8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、「四国地頭」に補任される(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士達は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏する。翌年の5月、地元民の密告により露顕し、北条時定の手兵によって捕らえられ、長男・光家、次男・行頼とともに斬首された。

経歴

※日付=旧暦

子孫

尊卑分脈』の記述によれば、長男・家光(光家)の子孫が5代後まで都の官人として存続しており、また三男で僧となった中納言房西乗の子・為貞尾張国中野に居住して中野源三を称したという。戦国時代には、織田信長の家臣として名が見える中野一安が為貞の後裔を称したほか、同じく戦国武将・新宮行朝も明確な系譜は不明だが行家の末裔を称した。

遺跡

愛知県蒲郡市に行家が築いたとされる五井城があった。その後、そこを居城とした松平氏が関東に移って廃城となる。長泉寺、真清寺の山門はこの城の門の移築で、八幡社の前の池は城の堀であるなど諸説がある。 また大阪府河内長野市にあった烏帽子形城は、『平家物語』「室山」に登場する行家が篭城した「長野城」の有力候補地のひとつとされている(当時の烏帽子形城があった地域が長野荘と呼ばれていたため)。

脚注

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参考資料

  • 佐倉由泰「『平家物語』における源行家」信州大学『人文科学論集 文化コミュニケーション学科編』30号、1996年(機関リポジトリで閲覧、外部リンク
  • 長村祥知 「源行家の軌跡」『季刊iichiko』110号、日本ベリエールアートセンター、2011年4月

関連項目

創作作品
  • 長村[2011: 37]では、行家は「軍事指揮官としては無能だが、工作員としては有能」であったと評価されている。