源範頼

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源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったためテンプレート:ルビテンプレート:ルビとも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。

武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。

生涯

蒲冠者

父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季東国受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。

治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動していたと考えられる。そのためか甲斐源氏である武田とは関わりがあり、多くの戦を共にする。

寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野国小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料吾妻鏡)で確認されるが、小山氏の活躍により勝敗は決しており、残党狩りに近い状態だと思われる。

大将軍代理

寿永3年(1184年)1月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。尾張国墨俣渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、怒りを買っている。1月20日、範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。義経の独断による強襲とも言われているが、範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしている事から、戦上手の今井兼平率いる500余騎を範頼軍に引きつけるための作戦だったと思われる。また範頼軍も強襲をすると、進軍の大義名分である義仲が西方面に逃亡してしまう危険性があり、なにより京都には3万の兵士をまかなえるだけの食糧もなかった。義経の京都強襲が成功すると義仲は今井兼平と合流し、北陸に逃亡をはかるが、事前に察知していた範頼軍は展開していた兵士で追跡し、武田軍により義仲を討伐する。『平家物語』では義経が先に後白河法皇の御所に駆け付け、名乗りを上げる場面で「範頼は未だ参らず」という台詞があるが、『吾妻鏡』では範頼と義経は共に院の御所に参上している。

寿永3年(1184年)2月5日に始まった一ノ谷の戦いでは、範頼は大手軍を率いて進軍し(宇治川の戦いで率いた3万の兵士を基幹としたと思われる)、また義経は1万の搦手軍を率いて進軍した。両軍の兵力差からみて、すでに敵主力を範頼軍に引き付ける作戦は決定していたと思われる。福原を本営に強固な防御陣を築いて待ち受ける平氏に対し、範頼軍は東側から正面攻撃を行い、生田の森において激戦が展開された。この間に西側に回り込んだ義経軍による奇襲によって戦いは7日に終結し、平氏を海上に追いやって大勝する。義経の評価はいっそう高まった。しかし諫言で有名な梶原景時や、畠山重忠などの勇将を統率した範頼の手腕を凡将という言葉で説明することはできない。

3月、範頼は上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。

6月、範頼は戦功により三河守に任じられる[1]。この守は名義上のものではなく建久4(1193年)8月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。現在も三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる。

九州征伐

8月、範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。この時代において馬は貴重品であり、また頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられた事から、遠征の重要性が理解できる。また九州進軍は平氏討伐ではなく、頼朝と対立・平氏を援助する西国御家人を鎮圧し、平氏を瀬戸内方面に孤立させる事である。参加した武将は北条義時足利義兼千葉常胤三浦義澄小山朝光仁田忠常比企能員和田義盛土佐坊昌俊天野遠景など頼朝軍の主力武士団を揃えた。

備前国藤戸の戦いにて佐々木盛綱の活躍で平行盛軍に辛勝し、長門国まで至るが瀬戸内海を平氏の水軍に押さえられていることもあって、遠征軍は兵糧不足などにより進軍が停滞した。この事から、範頼の戦での能力は低いといわれるが、実際は頼朝が、範頼軍の食糧問題を解決する前に出発させた事が原因であるとされる。その理由として3万もの軍勢を京に長く滞在させることで、食糧や治安に問題がおきる事を避けたためといわれる。範頼は防長から、11・12月にかけて兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。それに対して頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれない事、安徳天皇二位尼神器を無事に迎える事、関東武士たちを大切にする事など、細心の注意を書いた返書を送っている。特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っている。

文治元年(1185年)1月26日、豊後国の豪族・緒方惟栄の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に鎌倉へ帰ろうとする関東武士たちを強引に押しとどめて周防国より豊後国に渡ることに成功。九州の平氏家人である原田種直を2月に葦屋浦の戦いで打ち破り、長門国彦島(下関市)に最後の拠点を置く平氏の背後を遮断する。これにより実質、平氏の戦力は壊滅したのと同じであり、平氏は援助も隠れる場所すらも失った。この範頼軍の動きのため、平知盛は長門に留まらざるを得ず、屋島の戦いに参加できなかった。

同年2月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の戦いで勝利する[2]。 範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、四国担当の義経が引き入れた熊野水軍湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている。

3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。

戦後

壇ノ浦合戦後、範頼は頼朝の命により、九州に残って神剣の捜索と平氏の残存勢力や領地の処分など、戦後処理にあたる。5月の頼朝からの伝令では、従っている御家人達に問題があっても、自分で勝手に判断して処罰せず、頼朝を通すように注意がきている。その頃鎌倉では、平氏追討の道中、頼朝の意に背かず何事も千葉常胤や奉行として付けられた和田義盛に相談した範頼に対し、言いつけを守らず独自に行動する義経の専横や越権行為が頼朝の怒りを買っており、範頼が九州の行政に当たっている間に、頼朝と義経は対立する。

範頼は9月に頼朝に帰還の手紙を出し、海が荒れたため到着が遅れる旨を報告している。この範頼のこまめな報告ぶりも、頼朝に忠実であるとして評価され、逆に義経の独断専行ぶりを際だたせたという。10月、鎌倉へ帰還した範頼は、父・義朝の供養のための勝長寿院落慶供養で源氏一門の列に並び出席している。

義経は頼朝追討の挙兵に失敗し、同年11月に都を落ちた。その際、養父・藤原範季の実子で範頼と親しかった範資は、範頼から兵を借りて義経追討に加わっている(河尻の戦い)。範季は潜伏中の義経を匿った事で頼朝の要請により解官されている。義経は奥州へ逃げ延びたのち、文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡による討伐軍の襲撃を受け、自害した。

文治5年(1189年)7月、頼朝自ら出陣し、奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦においては、頼朝の中軍に従い出征。多くの源平合戦に参加した範頼だが、これが最後の参戦となった。

建久元年(1190年)6月28日、都の院庁官・中原康貞が、範頼を通じて院伝奏・藤原定長と、関東申次吉田経房を訴えた事に対し、頼朝は訴えをまったく聞き入れず、両者ともに公武での務めをよく果たしている良臣であり、この事は口外しないよう範頼に言い含めた。康貞の讒訴の意図は不明だが、範頼が中原康貞の仲介を行ったのは、康貞の弟・中原重能が範頼の家政機関の運営を行う吏僚であったためと考えられる。頼朝挙兵に参じた頃の私的郎党はわずかなものであったと思われるが、追討の実績・三河守補任や所領の獲得などによって私的な主従関係を結んだ武士の数も増えていったと見られる。また範頼と京との結びつきの強さから、直属武力なる武士たちには朝廷の武官職を持つ者も多かった。養父・藤原範季は九条兼実家司であり、西国遠征の際には養父との接触にも慎重だった範頼が公家の争いに関わったのは、何らかの事情があったものと考えられる。

同年11月の頼朝上洛に従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめる。この時の上洛で源氏一門の源広綱が供奉人に選ばれなかった事を理由に遁世した事を、広綱の使いから聞いた頼朝は、「行列の前駆は後白河院が定められた他は、参州(範頼)は兄弟であるので他の者には準じがたく、このことは相模守(大内惟義)以下も承知していることだ」と述べている。

最期

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修善寺温泉場の範頼の墓

建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる[3]

8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流した(『吾妻鏡』)。

8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。

8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我祐成らの同母兄弟である原小次郎(『曽我物語』では京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されている。

伝説

範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラ大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。

人物

  • 性格については、多くの小説などで「大人しい、温厚」という表現をされていることが多いが、『吾妻鏡』によると「私の合戦を好み・太だ穏便ならざるの ・由仰せらる」と残され、また御家人と乱闘を起こすなど、決して大人しいという事はない。
  • 範頼が凡将、無能というように記述されているのは『源平盛衰記』だけであり、盛衰記は14世紀に作成されており創作部分が多いことから、正確性は低いと判断される。『平家物語』でも、兵糧不足で停滞していた頃の範頼の遠征軍が、遊女と戯れ進軍を怠っている事になっており、宇治川合戦後の後白河法皇の御所への参院で範頼がいなかった事にされるなど、義経の武勲を引き立てるために範頼の活躍を矮小化している傾向がある。
  • 頼朝が義経には朝廷との交渉や京都の治安維持を任せ、範頼には対平家戦などの軍事作戦に専念させる方針であったとする見方がある。例えば、元暦元年8月27日に範頼が上洛し、2日後に平家追討の太政官符を受け取ると翌日には西国に出発している。これについて、九条兼実藤原定能からの情報として、範頼は頼朝から「一日たりとも京都に逗留せずに四国に向かうように」という指示を受けているという話を記している(『玉葉』元暦元年8月21日条)[4]

脚注

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参考文献

  • 野口実 『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』 新人物往来社、1998年。
  • 野口実「源範頼の軌跡」『鎌倉』65号1991年1月
  • 金澤正大「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』370号1997年4・5・6月

関連項目

史跡
歌舞伎
  • 女暫 歌舞伎「」の女性版。ヒロイン巴御前に対するウケ(悪玉の大将)として登場
小説
  • 堀和久『蒲桜爛漫―頼朝の弟・義経の兄・源範頼』(1999年、秋田書店)
舞台

外部リンク

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  • 『平家物語』では、範頼の三河守任官は元暦元年(1184年)8月6日の除目という。→佐藤謙三 校注 『平家物語』(下巻)〈角川文庫ソフィア〉11、角川書店、1998年、165頁。
  • 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
  • ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。
  • 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)P87-90