平行盛
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平 行盛(たいら の ゆきもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。
生涯
父基盛が早世した後、その菩提を弔いながら過ごしていたが、これを憐れんだ伯父の重盛によって養育され、平家一門の栄達にともない正五位下に昇叙し播磨守、左馬頭にもなる。藤原定家に師事し歌人としても名を上げた。都落ちの際に自身の詠草を定家に託し、その包み紙に書かれた和歌は後に新勅撰和歌集に入集している。
治承・寿永の乱においては、倶利伽羅峠の戦い、三草山の戦い、藤戸の戦い、屋島の戦いなどに参加。特に藤戸の戦いにおいては、大将軍として佐々木盛綱率いる源氏方と対戦した。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いにおいて最終的な敗北を喫し、従兄弟の資盛、有盛とともに入水自殺(平家物語)、または討死(源平盛衰記)。
伝承
一説によると信基(時信)という息子がおり、種子島に渡って種子島氏の祖となったと伝わる。
奄美群島に伝わる平家落人伝説では壇ノ浦の戦いから落ち延びて従兄弟の平資盛、平有盛や彼等の配下と共に生き伸び島民に文化を教え島を統治したとも伝わっている。