三浦義澄
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三浦 義澄(みうら よしずみ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。
経歴
相模国三浦郡矢部郷の出身。具体的な時期は不明ながら、上総常澄の加冠によって元服し義澄と名乗ったとされる[1]。
平治元年(1159年)の平治の乱では源義平に従うが、平家方に敗れて京都から郷里に落ち延びる。長寛2年(1164年)、兄・杉本義宗が39歳で亡くなり、それによって三浦氏の家督を継ぐ。
治承4年(1180年)、源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰伏した重忠らと共に鎌倉に入る。
この頃、平家側についていた妻の父である伊東祐親が捕らえられ、その身を預かる事となり、義澄は頼朝に祐親の事を許させるが、祐親は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。
義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる。
正治元年(1199年)、頼朝が死去した後には2代将軍・源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の変で梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74。
関連項目
参考文献
- 野口実 『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)
- 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)) ISBN 978-4-7842-1620-8
脚注
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