仁田忠常

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仁田 忠常(にった ただつね、仁安2年(1167年) - 建仁3年9月6日1203年10月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は四郎。父母は不詳。名は新田忠常とも、日田忠常とも言われ、『平家物語』では「にたんのただつね」と読まれる。

生涯

伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で、治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く、文治3年(1187年)正月、忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げた。文治5年 (1189年)の奥州合戦においても戦功を挙げる。建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際に、兄の曾我祐成を討ち取る。

頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父となっている。建仁3年(1203年)9月2日、頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変(比企の乱)が起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を謀殺した。5日、頼家が回復すると、逆に頼家から時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で加藤景廉に殺害された。享年37。

静岡県田方郡函南町仁田には、忠常の墓と館跡がある。

関連項目