北条時政

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テンプレート:基礎情報 武士 北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権

家系桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。

家系

北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である[1]。時政以前の系譜は系図により全て異なるため、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。ただし祖父が北条時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。

吾妻鏡』は40歳を越えた時政に「」や都の官位等を付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記している。保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたく、時政は北条氏の当主ではなく傍流であり、国衙在庁から排除されていたのではないかとする見解がある。ただし河越太郎重頼(武蔵国留守所惣検校職)、小山四郎政光(下野大椽)のように国衙最有力在庁でも太郎・四郎と表記される例や、後年の護良親王令旨や吉田定房の『吉口伝』のように時政を在庁官人とする史料もあり、時政が在庁官人でなかったとは断定できない。北条氏の本拠は国府のある三島狩野川流域に近接して、軍事・交通の要衝といえる位置にあり、国衙と無関係とするのは考えがたいとする見解もある。

いずれにしても、時政の前半生及び内乱以前の北条氏については謎に包まれている。

生涯

頼朝の舅

平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた。時政が在京中の間に頼朝と娘の政子が恋仲となり、時政は政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。しかし政子が頼朝の元へ走ると、一転して時政は二人の結婚を認めて頼朝の後援者となる。この頃、京都では平清盛後白河法皇の間に対立の兆しが見え始め、延暦寺強訴安元の大火鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こっていた。在京して中央の情勢を見ていた時政は、平氏政権が長く続かないことを見越して頼朝を婿とした可能性もある。

治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。また頼政の孫・有綱は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めた。挙兵を前に、頼朝は工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたという(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)。

挙兵

8月17日、頼朝軍は山木兼隆を襲撃して討ち取った。頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出するが、平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。この時、時政の嫡男・宗時伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて甲斐に赴き、15日、武田信義一条忠頼のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという[2]。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。甲斐源氏との連携を成し遂げた時政は頼朝から報償を与えられた。大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。

亀の前事件

治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。

京都守護

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った[3]。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。

時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し[4]、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。

鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。

富士の巻狩り

建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国那須野、次いで信濃国・三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。

伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。なお、この年の8月には長年に渡って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる。伊豆・駿河・遠江3ヶ国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになる。

政権争奪

頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚、12月に鎌倉から追放された(梶原景時の変)。時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高い。正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初の国司となった。時政の幕府内における地位は大いに向上したが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。建仁3年(1203年)9月2日、時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した(比企能員の変)。

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1397)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられている[出典 1]。また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは十三人合議制あたりからである。ただ、その間に領土的な地盤は拡充されており、旗揚げ時にも僅かな兵しか動かせなかった小豪族・北条家は、三浦や畠山といった大族に対抗し得るだけの軍事力をも蔵するようになってきていた。

時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れた。武蔵国の国務は岳父の時政が代行することになり、侍所別当・和田義盛の奉行により武蔵国御家人に対し、時政に忠誠を尽くす旨が命じられている(『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)。元久元年(1204年)3月6日には時政の子・義時が相模守に任じられ[5]、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。

失脚

時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠との間に軋轢を生じさせることになった。重忠は時政の娘婿であったが、元久2年(1205年)6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱)。

閏7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある[出典 2]。幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった(牧氏事件)。

この牧氏事件に関しては『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だった、『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計としている。畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される[6]。以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

建保3年(1215年)1月6日、腫物のため北条の地で死去した。享年78。

人物・逸話

時政が流人だった頼朝に賭けて平氏政権に反旗を翻したことは、時勢を察知しうる優れた先見性があったからである。名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、畠山重忠謀殺や実朝暗殺未遂で晩節を汚したためか、子孫からは初代を義時として祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物である。

時政の孫で第3代執権の北条泰時は清廉で知られ、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事あるごとに参詣して歳末の年中行事も欠かさなかったが、時政のみは牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人であるとして仏事を行なわれずに存在を否定されている[出典 3]

邸跡をめぐる動き

昭和15年(1940年)ごろに一部の研究者によって衣張山のふもとにある遺跡が時政邸跡であると推定され、以降、神奈川県教育委員会が作成した遺跡地図遺跡台帳にも「北条時政邸跡」と記されてきた。しかし鎌倉市平成20年(2008年)後半に発掘調査を実施した結果、時政の時代の遺物は発見されず、最も古い遺構でも13世紀後半のものと推測されたため(時政は13世紀前半に没している)、時政邸跡ではない可能性が濃厚になり、平成21年(2009年)になって「大町釈迦堂口遺跡」と名称が変更された。

上記の調査の結果、この遺跡はおそらく鎌倉時代の寺と推測されており、歴史的資料としての価値はあるとして史跡指定が目指されている。

系譜

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • 安田元久『北条義時』吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年新装版(1961年発刊)。 ISBN 978-4-642-05033-3
  • 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年新装版(1958年発刊)。 ISBN 4-642-05135-X
  • 関幸彦『北条時政と北条政子 「鎌倉」の時代を担った父と娘』 山川出版社〈日本史リブレット〉、2009年。

関連項目

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  1. 『吾妻鏡』文治5年6月6日条によれば、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたという。平安時代中期以降、律令制の郡は名田または(みょう)といった徴税単位に細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多く見られた。
  2. 『吾妻鏡』によると上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第二の使者として甲斐に送り、24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河で参会すべきか評議を重ねている。一方『延慶本平家物語』では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。
  3. 時政が使者に選ばれた背景として、京都側の対幕府窓口である吉田経房が伊豆守在任中に、在庁官人であった時政と交流があったためという説がある。
  4. 「七ヶ国地頭」の設置対象地域は畿内近国と推定されるが詳細は不明であり、惣追捕使との関係も明瞭ではない。現在ではこの「七ヶ国地頭」は鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であり、守護の前段階とする説が有力となっている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』〈講談社選書メチエ〉講談社、1996年)。国地頭は強大な権限を持つ反面、荘園領主である貴族・寺社との紛争処理や国衙行政の監督、後白河院からの要望など、対応しなければならない諸問題も多く、時政は義経・行家の捜索に専念したい思惑から軍事・検断関係を職務とする惣追捕使となることを望んだのではないかとする見解がある(松島周一「北条時政の京都駐留」『日本文化論叢』9、2001年)。
  5. 武家年代記』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『鎌倉年代記』『系図纂要』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。
  6. 乱後に重忠の無罪が明らかになると、時政派の稲毛重成、榛谷重朝(重成の弟)が三浦義村に誅殺されている。


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