中原親能
中原 親能(なかはら の ちかよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての官人、文官御家人。鎌倉幕府政所公事奉行。
出自
明法博士・中原広季(貞親流・貞親の曾孫)の子で大江広元と兄弟であるとする説と、参議・藤原光能の三男で中原広季の養子になったとする説がある。後者は大友氏系図にあるものだが、親能が後に中原姓から藤原姓に改姓していることの反映と思われる。
生涯
吾妻鏡によると頼長の母親(しかし尊卑分脈などでは異なる)が波多野氏のものであり河内源氏と縁戚関係にあった相模国の波多野氏の許で育った。そのため文字が書けない。後に京都に上り、妻が乳母をしていた源兼忠の父親である源雅頼の家人となり後白河院に院仕として仕える。源頼朝が挙兵した4か月後の治承4年(1180年)12月に雅頼の家から逃亡する。波多野氏と頼朝の関係を知る平時忠の命令で、親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知し逃亡したのである。その後、頼朝の下に走りそのまま仕えた。(しかし瀬野清一郎氏は信憑性がないとしている。)その後も雅頼との主人と家人の関係は続き雅頼に東国の重要な情報をもたらした。
寿永2年(1183年)10月、源義経の軍勢と共に上洛する。父・広季と親交があった九条兼実をはじめとして多くの公家との関係が深く、義経が初めて上洛した時には京都の人々は義経の名を知らず、親能が総大将だと思っていたという。翌元暦元年(1184年)正月に入京、頼朝代官として万事を奉行し、公家たちとの交渉に活躍する。2月の一ノ谷の戦いでは義経軍に属する。
一ノ谷の戦い後に後白河法皇の使として頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日に梶原景時・土肥実平と共に平家追討軍の奉行として上洛。同年10月、公文所寄人に任命される。
文治2年(1186年)、京都守護に任じられ上洛。建久2年(1191年)、政所の公事奉行に任じられた。十三人の合議制の1人。
文治2(1186年)年に誕生した頼朝の次女・三幡の乳父となり、正治元年(1199年)6月25日、三幡が危篤となると京から鎌倉へ駆け戻り、30日の死去にともない出家し寂忍と称した。
関連項目
- 神宮寺八幡神社 - 名入り棟札が現存している。