北条時氏
テンプレート:基礎情報 武士 北条 時氏(ほうじょう ときうじ)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男。嫡子だったが早世したため執権にはなっていない。
生涯
建仁3年(1203年)、北条泰時(後の第3代執権)の長男として生まれる[1]。
承久3年(1221年)の承久の乱では父・泰時とともに東海道を攻め上り[2][3]、5月21日に18騎で最初から従軍する[4]。この乱の最中である6月14日の宇治川合戦では朝廷方の激しい抵抗と宇治川の急流で幕府軍が苦戦している中で自ら宇治川を敵前渡河する功績を立てた[5][3]。
貞応3年(1224年)6月、父が第3代執権として鎌倉に戻ったため、入れ替わりで六波羅探題北方に任じられて京都に赴任する[2][3]。
嘉禄3年(1227年)4月20日に修理亮に任官し[2][註 1]、安貞元年(1228年)には若狭国の守護となり[2]、第4代執権となることを期待されていた[3]。
時氏の六波羅探題在任中は承久の乱の余波で治安が乱れており、京都の警備担当者として取り締まりに当たる一方、得宗家の嫡子である事から南北両探題の主導的立場にある執権探題として在職した[6]。
寛喜2年(1230年)3月28日に六波羅探題在職中に病に倒れて鎌倉へ戻った[7][2]。『六波羅守護次第』では鎌倉へ下向中の宮路山(現在の愛知県豊川市)で発病したとされる。
泰時は様々な治療や祈祷を行なったが、回復せずに6月18日戌刻(午後8時頃)に父に先立って死去した[7][8]。享年28[9][7]。奇しくも3年前に暗殺された弟の時実と同日の死であった[10][7]。
時氏の遺骸は6月19日の寅刻(午前4時頃)に大慈寺の傍にある山麓に葬られた[7]。
泰時は後継者として期待していた愛児に先立たれて悲しんだという[11][12]。また関東では時氏の死を悼んで出家する者が数十人にのぼったという(『明月記』6月29日条)。
第4代執権には時氏の長男・経時が就任した。
経歴
※ 日付=旧暦
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年新装版(1958年発刊)ISBN 4-642-05135-X
- 高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年
- 史料
- 『六波羅守護次第』
- 『明月記』
- ↑ 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.1
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「.E9.8E.8C.E5.80.89.E3.83.BB.E5.AE.A4.E7.94.BAp543
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「.E5.8C.97.E6.9D.A1.E6.99.82.E9.A0.BCp2
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉26頁。
- ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉38頁・75頁。
- ↑ 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.6
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.12
- ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉74頁。
- ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉74頁。
- ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉75頁。
- ↑ 『北条泰時』〈人物叢書〉75頁。
- ↑ 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.13
引用エラー: 「註」という名前のグループの <ref>
タグがありますが、対応する <references group="註"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません