惟康親王

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。

生涯

相模国鎌倉に生まれる。文永3年(1266年)7月、宗尊親王が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。

26歳となった正応2年(1289年)9月、北条氏が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望んだことから、将軍職を解任され京に戻された。その際、追放の下準備として幕府の要請により皇籍復帰し、朝廷より親王宣下がなされ、惟康親王と名乗った。『とはずがたり』によれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中をで包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父宗尊親王のように歌を残すこともなかった事を悔やんでいる。

京へ送還された後、同年12月に出家した。嘉暦元年(1326年)に薨去、享年63。

官歴

※日付=旧暦

将軍在職時の執権

系譜

源義朝の女系子孫にあたる。

登場作品

脚注

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  1. 本朝皇胤紹運録』『尊卑分脈』『諸門跡傅』では宗尊親王の子および久明親王の子として両方に記載がある。『天台座主記』『僧官補任』では久明親王の子とする。