守邦親王

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。

生涯

8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。

延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任したが、当時幕府の実権は執権北条氏(中心は得宗家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった。

また、題目宗の是非を問う問答対決の命を亡き日蓮六老僧の一人日朗武蔵国長栄山池上本門寺住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し、文保2年(1318年)12月30日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて題目宗と日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認める。

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による倒幕運動が起きると、鎌倉は足利義詮新田義貞の攻撃により陥落。結果、幕府は滅亡した。

得宗北条高時が5月22日に自刃すると、同日に守邦親王は将軍職を辞して出家し、年内に鎌倉で薨去した。

官歴

日付は旧暦である。

  • 延慶元年(1308年) 8月10日:征夷大将軍宣下。10月:立親王。三品に叙せらる。
  • 文保元年(1317年) 4月19日:二品。
  • 元弘3年(1333年) 5月22日:征夷大将軍辞職。出家。

将軍在職中の執権

関連項目

登場作品

外部リンク


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